6月13日のメッセージ

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「がんばらないと愛されないのですか」(小田切武さん)

空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父がこれを養っていてくださるのです。あなた方は、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。                            マタイの福音書6章26節

がんばらないと愛されないのですか?

コロナ禍で、学校で、職場で、家庭でも・・・ とにかく「がんばって」いませんか。

がんばることは悪いことではありません。でも、がんばらなくては人は、そして神様さえも愛してくれない、そう考えているとしたら、何か違うのかも?

「日本人は『恵み』を正しく理解するのが難しい民族」とも言われます。

いのちをすり減らすだけの”頑張る至上主義”を手放し、いのちを豊かにする“恵みによる生き方”について、一緒に考えてみませんか。

これはバイブル&ライフ(100万人の福音)2021年2月号に載せられていた記事です。

聖書は人間のがんばりや努力の先に素晴らしいものがあるということは書いていません。人間の頑張りが終わった時、そこに神様の恵みの世界が広がっているという書き方をします。苦しみの十字架の向こうに復活があり、人類の救いがあるという事を教えています。ですから失敗も大丈夫です。行き詰まりも大丈夫、弱さも大丈夫、神様の恵みを受ける妨げにはなりません、かえって恵みのチャンスになります。私たちは失敗すると、自分の人生を支えていたものが音を立ててくずれ、どのように生きてよいかわからなくなることが有り、自己否定にまで陥ることが有ります。しかし不思議なものです、失敗や挫折や悲しみや落ち込みの中で苦悩する時、そこでイエス様と出会うことが出来ます。

楽しみ、喜びの中だけで出会った神様は、苦しみや悲しみに会うとすぐに見失ってしまいます。

自分が、がんばって信じた神様は、がんばっていないと逃げて行ってしまうと思う神様です。ですから頑張り続けます。自分の努力の結果「信じた」神様は、「信じない」事で簡単に否定できる神様です。ですから、がんばって信じ続けます。しかし、失敗や挫折、悲しみや落ち込みの中で、神様の方から出会ってくださった神様は、こちらの状態には左右されずにいつも確かです。

バイブル&ライフの2月号にはこんな記事も書かれていました。「教会の熱心な信者で献身的に奉仕しており、教会活動と伝道に一心不乱に取り組んできた方が余命半年と告げられた病床で「「私は救われるやろか・・・」「救われる確信がないんだよ」言われたそうです。この方は神様のために何かしていなければ救われないのではという恐れに、ずっと捕われていたのです。救いの確信がないから、病気になって何もできないことが不安だったのでしょう。その方が所属していた教会は、信徒を奉仕に駆り立てる事が多い教会だったようです。生真面目で純真な、この方は一生懸命奉仕しなければ自分は救われないという思いが刷り込まれていたのです。」

これは本当に悲しい話です、大いなる勘違いです、神様の救い、神様の愛はそんなものではありません。

ぶどうの木コイノニアの教会内でも年間テーマとして「復活のいのちを宣べ伝える」が検討された時、私にとってはこのテーマは重い、私はなかなか、福音を伝えられないのですと言う意見があったそうです。その通りだと思います、この方は非常に正直な方だと思います。「復活のいのちを宣べ伝える」意思はあってもなかなか実行は難しいことだと思います。

しかし、イエス様は、人が何を「する」かで扱いを変える方ではありません、「私はあなたを愛している」この言葉によって世界は誕生し、私たち一人一人も創られ、生かされているのです。ヨハネの手紙第1、4章10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と記されています。神様にとっては、私たち一人一人が愛の対象であり、私たち一人一人の全てをご存じで、弱さを持った私たちをも知っておられます。そのうえで私たちを愛してくださるのです。大切なことは、私たちは神の前に「いる」という事実なのです。私たちを愛し、私たち一人一人を生かして用いてくださるのは神様です。

多くの方がご覧になったと思いますが、昨年、テレビ放映でオリンピックメダリストからの「コロナ禍の今できる事」というメッセージが放送されていました。この放送で卓球の水谷準選手は、今できる事」それは「卓球」といっていました。理由は、スポーツは人を励ます力がある、もし自分が医者であれば病気を治すこともできますが、自分は卓球選手、だから卓球を精一杯行うことで、皆さんを元気つけたいと言っておられました。

私たちはイエス・キリストの福音に触れ、救われたキリスト者です。では、私たちキリスト者は何が出来るのでしょうか。それは、この世の人々に、私たちを愛して下さっている神の存在を知らせてあげる事ではないでしょうか。このために、駅前に立ち、マイクを持って大きな声で福音を語り、トラクトを配る、これは、これで大切な働きだとは思います。でも、これが全員に求められている事でしょうか。どなたでもできる事でしょうか。私には出来ないんです、むずかしいのです、今の自分の力ではできないのですと、言われる方も多いと思います。私もその一人です。でも、どなたでも出来ることが有ります。それは自分自身の生活においてキリストを着る事だと思います。気負うことなく、自分自身に与えられた仕事、生活にキリストの恵みを生かしていく。キリストの恵みを生かしていくとは、日々、聖書の御言葉に教えられ、支えられて神様の愛と守りの中で、日常生活をしていく事だと思います、御言葉に励まされ、喜びに満たされて一日一日を大切に生きて行く事。これは大きな証になります。自分自身の生き方を通してキリストを証して行くことが出来るのです。触れる人をキリストの愛に触れさせてあげられます。頑張らなくてもよいのです、神様の愛を受け取り、いつも傍らで支えてくださるイエス様に助けて頂きながら、喜びに満たされて生きて行けば良いのではないでしょうか。これが私たち一人一人に求められていることだと思います。

私の実家、小田切家に繋がる家族には、現在6名のクリスチャンがいます。約60年前に小田切家に嫁いできた、キリストを信じる兄嫁の生活を通しての祈りと証から、この6名のキリスト者が生まれたのです。父は死の間際ではありましたが、イエス様を受け入れ、救われることが出来ました。嫁ぎ先である私の実家で兄嫁のキリスト信仰が喜んで受け入れられたわけではありませんでした。決して自由に福音を語る事のできる環境ではありませんでした。しかし神様は兄嫁の信仰を光、輝かせてくださり、この業をなしてくださったのです。

私たちが神様を支える必要はないのです、神様からの恵みを頂けばよいのです。神様は私たちに支えられる必要のないお方であり、私たちを恵みによって支えてくださるお方です。この愛に感謝しましょう

今日の御言葉にある通り、私たちを大切なものとして、愛の対象としてお創りくださった神様が私たちを養い育て、守ってくださいます。この神様に信頼して、神様の恵みの中で喜びに満たされて生きて行く事が最も大切だと思います。先ほどの水谷選手は「スポーツは人を励ます力がある」と言いました。、神様からの恵みと救いを頂いて、喜びの中に生きている人は、福音の光を発する力があると思います。そしてその光を、光り輝かせて福音を証し、福音を宣べ伝えてくださるのは神様です。神様は今日も生きて、私たちと伴に歩んでくださっています。この約束を信じて、神に頼り、今週も復活の主、イエス様を見上げて、イエス様の助けと支えを祈り求めながら一日一日を大切に歩んで行きましょう。

今週の黙想:今、自分は救われた喜びに満たされているでしょうか。日常の心配事や諸々に気を奪われ、がんばっていくことに専念しようとしていませんか。祈りを忘れていないでしょうか。神様の前に出て心を静め、神様の癒しと助け、導きを求める時間を大切にしていきましょう。

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