6月6日のメッセージ

2021年6月6日「十字架の上の7つの言葉⑦」

 

19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。     ヨハネの福音書

 

<大切な言葉>

聖書は神様からの手紙や、神の自己紹介の書、と言われますが、手紙や書物には、とりわけ大切な言葉があるように、きっと神様にとっても、この言葉をいつも耳に、心に、魂に響かせてほしいという言葉があり、その一つが今日の「完了した」だと思います。

もし、私達の心に、疑い、失望、諦め、疲れ、といったものがあるなら、どうかこの言葉を思い出してください。

 

<What(なに?):Where(どこ?):人を贖い取り戻すことが「完了した。」>

イエス様は、十字架で、「もうダメだ」でも「失敗した」ではなく、「完了した」と言われました。別の訳では「成し遂げられた」とも訳されます。

イエス様の十字架は、失敗でも敗北でもなく、完了、完成、成就だったのです。悲惨な十字架こそが、実はイエス様が生まれてくださった目的でした。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45

イエス様が十字架で完了したのは「贖い」でした。

 

「贖い」(Redemption)とは少し聞きなれない言葉かもしれませんが、持ち物・大切なものを別の代価や犠牲によって取り戻すことを意味します。

例えば土地や財産を買戻したり、身代金によって奴隷を解放したり、死や罰の身代わりに犠牲の生贄を捧げ取り戻したリ。ただ苦難から解放されるだけでなく、解放されて本来の所有者のもとに取り戻される、という方向性があります。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(第一ペテロ2:24)

罪や死や困難から、解放されるのが救いなのではないのです。そこから出て、神様のもとに帰ることこそが、本当の救い(贖い)なのです。

そして、神様はそれほどまでに私達を取り戻したかったのです。私たちが今ここにいること、神に心を向けていること、それはイエス様が生涯をかけて、身体を張って、命を懸けて、「完了」してくださったことなのです。

 

<How(どのように?):Who(だれが?):When(いつ?)十字架で、イエスが、すでに、「完了した」>

贖いという言葉には、代価が伴うという話をしましたが、その代価がキリストです。

「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(第一ペテロ2:24)

私たちは罪によって神様から離れていた。けれど、イエス様は十字架で罪の罰を身代わりに受けてくださった。(罰とは痛みではなく、神から離れることです。)代価はすでに支払われたのです。

 

みなさんは、「自分は神に愛されるにふさわしくない」、とか、「正しく歩めない自分は救われていないのではないか?」と考えたことはありますか?(それは謙遜さゆえでしょうし、普通救われていない人はそのように考えません。自分と神様との関係を疑えているなら、それは健全であり、すでに神に救われている証だとも言えます。)

教会は、歴史の中で異端に悩みました。けれども異端とは、神様やイエス様を否定することではありません。十字架、プラス、アルファ、十字架に何かを付け加えることです。

ユダヤ的異端は、十字架プラス律法の順守。グノーシス的異端は、十字架プラス神秘的知識

他にも十字架プラス・・・豊富な知識、特別な体験、心の確信、熱心な奉仕、などなど・・・十字架では不十分とするのです。私たちも同じように十字架に何かを加えていませんか?

 

また順序を逆にしてはいませんか?もっと何かをしたから、さらに何かを身につけたら、救われるとか、救いにふさわしくなると考えていませんか?新しく生きることは良いことです。変わることは良いことです。けれど、私たちは、救われたから、新しく生きるのです。新しく生きたから救われるのではありません。(ちょっと順番を入れ替えるだけで、簡単に異端・カルトが生まれるのです。)

 

思い出してください、イエスは、賢い人や立派な人の横へ行って「完了した」、とは言いませんでした。私達の涙や、成長を見て、「完了した」とも言いませんでした。十字架の時、弟子達はイエスを愛するどころか、逃げ出しましました。宗教家は、反省するどころか勝ち誇りあざ笑っています。

イエスはそんな十字架の上で、たった一人で言われたのです。「完了した。」と。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4:10

私たちは、すでに、イエスの十字架によって、愛された者なのです。

 

<Why(なぜ?):神の愛と期待ゆえに「完了した」>

最後に、なぜ神様が私たちを命がけで取り戻してくださったのか。それは私たちに愛だけでなく、期待をもっているからです。神は私だけでなく、隣の人をも愛しておられます。そして、私達を通しても、ご自身の愛を表したいのです。

自分を役に立たない、つまらない存在と考えてはいませんか?けれど神様は、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)と私たちを見ています。今はもう、「完了した」のです。神の子となったのです。聖書の約束が、自分を通して表されると、信じて生きていいのです。

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