5月30日のメッセージ

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2021年5月30日「十字架の上のキリスト⑥」

 

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。                     ヨハネの福音書

 

<渇いてくださるキリスト>

十字架の言葉の6つ目は、「わたしは渇く」という言葉です。

『渇く』(ディプサオー)は、ちょっと水分が欲しいな、ではなく、狩りで獲物を追うように、激しく求める、そんな意味の言葉です。

聖書では、渇くのは私たち人間の役目でした。神様から、命の源から離れた私たちは心と魂は渇くのです。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」(詩篇42:2)

しかし、聖書の人物達はしばしば、その渇きを、神以外のもので癒そうとしました。例えば、夫やこども、知識や地位、性や酒などです。それらは神から任された素晴らしいものでありますが、自分本位に自身の心を満たす道具としては与えられていません。そうやって間違った方法で、渇きを癒そうとする時、自分と、人を損なっていく人間の姿が聖書には記されています。

科学者であり、哲学者であるパスカル(『人間は考える葦である』で知られる『パンセ』の中で)は「人の心の中には、神が作った空洞(原文では深い淵)がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることが出来ない。」と記しています。

そんな私たちの空洞を満たし、私たちの渇きを潤し癒す、それがイエス様が来られた目的です。しかし、十字架の上で、私たちではなくイエス様が言うのです。「わたしは渇く」

 

<1.水を求めて渇く>

まず、イエス様は文字通り渇いています。十字架で肉体的な限界を迎えています。無限の神様が、水を求めて渇くような、有限で、弱い人間になりました。私たちと同じようになりました。サマリヤの女に水を求め、旅の疲れで眠り、鞭の痛みでうめき、今は十字架の上で激しく苦しみ、死を迎え、その命が枯れ果てようとしています。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2:6~8  イエス様にはここまでしてでも求めたものがあったのです。

 

<2.神を求めて渇く>

イエス様は、十字架の上で身体だけでなく、魂も渇ききっていました。

イエス様の生涯は、貧しさや乏しさ、批判や、裏切りや、痛み、といったものに満ちていました。それでも教え、励まし、与え続けました。私たちと同じように心や魂の渇きを感じたでしょう。しかし、イエス様の魂は枯れ果てることはありませんでした。なぜなら、どれだけ渇く時も、神との交わりのゆえに再び潤されたからです。

ですから他のもので必死に埋める必要はなかったのです。群衆の反応、着いてくる弟子たちの数、社会的な評判、豊かな生活、そういったものに左右され、一喜一憂する必要は無かった。絶えず神様とのつながりの中で、いのちを得ていた。

そのイエス様の心が、魂が、十字架の上で初めて渇ききったのです。正確には、この言葉は十字架にの死の直前、「すべてのことが完了した」時でした。何が完了した時か?それは、わたし達の罪の責任を全て負いきった時、私達の身代わりに神から切り離されたときでした。花が茎から切り離されるように、いのちを失うように、その交わりが絶たれ、イエスの心も魂も渇ききったのです。

 

<3.わたしたちを求めて渇く>

そんな犠牲を払ったのは、身体が渇いてまで、魂が渇ききってまで、私達を求めて渇いていたからでした。

イエスが言われた言葉、それは私たちが言うべき言葉です。身代わりにイエスが言ってくださった。身代わりにイエスが渇く者となってくださった。イエスは渇く私達に約束してくれました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13~14

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37~38

 

この約束は十字架で、イエスが私達の身代わりに渇くことで実現しました。キリストが罪を負い神から切り離され、私たちは命の源でもある神さまとつながった。この言葉を聞くたびに、わたしが身代わりに渇いたのだから、あなたはもう2度と渇かなくてもいいのだ、と語られている気がします。キリストが心身ともに渇いたのは、神が私たちを渇き求めたあかしです。

 

私は、遠く雲の上にいる神ならば、信頼したり、愛したりするのは難しかったと思います。十字架にまできて渇いてくださった神だから、信頼できたのです。私達の魂が渇き、何かで埋めようと手を伸ばすとき、思い返してください。私たちを求めて神が渇いたこと、私たちは神とのつながりを、渇きを永遠に癒す泉を得ていることを。

 

<義を求めて渇く>

飢え渇くと聞いて、忘れてはならない言葉があります。

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」マタイ5:6

これはキリストご自身の姿でもあります。キリストは、罪や不正が溢れた世界に神の善い思いが実現するようにと、この世界に飛び込み、飢え渇いた人、見捨てられた人に寄り添い癒しました。

「あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。」箴言3:27(口語訳)

私たちが潤されるのは、誰かの渇きに応えるためでもあるのです。私たちは神のいのちで満たされ、誰かの渇きを癒すために差し出されるコップでもあるのです。キリストは義に飢え渇いています。私たちはその方を主と呼ぶのなら、どのように従いましょうか?

 

 

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