5月24日~の毎日の聖書

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おざく台教会毎日の聖書 5月24日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

5月24日(月)創世記16章

11節「主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。」

伝承ではハガルの子イシュマエルがアラブ系の祖となったとされています。この民族は歴史を通しキリスト教徒との戦争や迫害の対象ともなりましたが、ここや21章では神様は、確かにこの母子を顧みています。

わたし達信仰者は、自分とは違う人と敵対したり、低く見たりする時はありませんか?バベルの塔で神が様々な言葉を与えられたように、ペンテコステで様々な言語で良い知らせが語られたように、違いとは神の意図された豊かさです。神はあなたとは違う存在を、あなたと同じように愛しているのです。

 

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」黙示録7章9~10節

 

5月25日(火)創世記17章

5節「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」

アブラムはアブラハム(多くの国民の父)という新しい名をもらいました。古代において名はその人の本質や人生を意味しました。そして、神と関わると名が変わり、生涯が変わるのです。

私達は改名はせず、洗礼名ももらいませんが、内面や歩みは神に出会い確かに変えられたはずです。あなたは神と出会いどう変えられましたか?あなたへの神の働きを、時間を取り思い返してください。

 

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1章12節

 

5月26日(水)創世記18章

21節「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

神はアブラハム、サラ、ソドムの町へ使いを送り、彼らの姿や応答を確かめられました。ある修道院では「お客さんが来た。キリストが来た。」という言葉が掲げられ、訪れる人は神の使いであり、私達の信仰の歩みはその人へのふるまいを通し確かめられるのだと語ります。

日曜日の礼拝だけではありません。あなたが今日出会う一人一人への姿勢に、あなたの信仰があらわされるのです。

 

「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節

 

5月27日(木)創世記19章

29節「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」

ソドムの壊滅は痛ましいですが、アブラハムの存在ととりなしの祈りにより、ロトの家族だけは滅びから逃れました。あなたの信仰と祈りもまた、他の人の救いへとつながるのです。あなたは今日、誰の救いのために神にとりなして祈りましょうか?

 

「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5章16節

 

5月28日(金)創世記20章

4節「主よ」

アブラハムが「神を恐れることが全くない」と考えていたゲラルの王アビメレクは、信仰者以上の誠実さを見せます。一方アブラハムは、サラを妹と偽り(腹違いの妹ではあるため全くのウソではありませんが・・・)、自分の保身に走りました。

この箇所では明らかに、異邦人のアビメレクのほうが、主なる神様に対して誠実だったのです。あなたは「この人は神を求めない」と誰かのことを諦めていませんか?神にとって不可能なことはないのです。あきらめず、神とその人を信頼して、祈り続けてください。

 

「それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」使徒15章17節

 

5月29日(土)創世記21章

18節「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

神様はイシュマエルを見捨てず、彼は命を救い、アラブ人の祖としました。彼と彼の民は確かに神の愛と憐みの対象なのです。

残念なことに歴史の中で、イスラム教徒とキリスト教徒とは対立を繰り返しました(そこには双方の人間的欲望や罪が見え隠れします)。イスラエルでの武力衝突が報道でも取り上げられる通り、今日も続き、深刻さを増しています。様々な見方があるでしょうが、正しさの議論の前に、パレスチナに、そしてわたし達の周囲に、平和があるように祈りたいと思います。

 

「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」第一ペテロ3章11節

 

5月30日(日)創世記22章

8節「アブラハムは答えた。『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」

神に従ったせいで犠牲を払ってばかりだ、そう思ったことはないでしょうか?しかし、神こそが大きな犠牲を払ってくだいました。その犠牲とは、神の御子、十字架で私達の罪の身代わりに死なれたイエス・キリストです。山の上の羊はこのキリストの予型です。神こそが大切な子を私たちのために捧げられたのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3章16~17節

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