5月23日のメッセージ

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おざく台教会2021年5月23日「ペンテコステ」

 

<聖書>

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)

 

<私たちが必死で求めるものは?>

みなさんはどんなニュースに心が向きましたか?(オリンピック?ワクチン接種?逃げ出したヘビ?)

私はイスラエルでの武力衝突でした。現地の映像や被害状況に心が痛みました。残念なことに、宗教や、神様が、争いの大義として語られていて、それが信仰への批判や敬遠につながっていると聞き、また心が痛みました。歴史や土地、利権をめぐる争いには、当事者でしか語れない難しい問題なのでしょうが、それでもその争いに、争い方に、神様の愛や憐みがあらわされているのかな?と疑問を感じます。(逆に、神を敬遠するのでは?)

 

振り返って自分自身の周りにも、たくさんの争いがあります。その時は自分なりに大義名分があるつもりですが、いつも後になって気付くのですが、何かを欲しがる欲望や、何かを失うことへの恐れといった、内側の問題に動かされていることが多いのです。(幼稚園児を見て、偉いなぁ、と思うのは、正直なところです。私のように、もっともそうな理由でごまかしたりしません。)

争いというと言葉は悪いですが、意見や考えは食い違って当然です。しっかりと主張すべきこともあるでしょう。何かを求めることも、決して悪いことではありません。しかし、私達の内側の問題が、「争い方」を、他者や物事との関わり方をおかしくしてしまうのです。

 

土地(古代では現代以上に、土地が大切であり、神の祝福と同義でした)をめぐる争い、我を失うほど何かを求める私たち人間のことを考えながら、聖書の一節が浮かびました。「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。」(詩篇142:5)財産でも、権利でも、繁栄でも、土地でもない。神様ご自身こそが、私の求めるものだとユダヤ人が言うのです。もし本当にそうであるなら・・・イスラエルの、そして、私達の状況は、また違ったものになるのではないでしょうか。

 

<なにより素晴らしいものを受けた日>

今日はペンテコステと呼ばれるお祝い。クリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祭の一つで「教会の誕生日」とも呼ばれます。(とはいっても、大きな教会が建築された日ではありません。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、当然牧師や信仰歴の長い人でもなく、私たち一人一人を、指します。)聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれ、聖霊が神を信じる全ての者に注がれた日、私たちが教会になった日です。

 

聖霊が注がれるということは、神がその人の内に強く働かれるということは、旧約聖書でもしばしば出てきます。しかし、ごく限られた一部の人(預言者、王様、祭司など)に、限られた時間だけでした。けれど、このペンテコステ以降、聖霊なる神様は、すべての人の内に、(一時滞在ではなく)永遠に住んでくださったのです。

 

毎週の礼拝の最後、『派遣の言葉』は、『神がいつも共におられます。平和のうちに世界へと・・・』と始まりますが、実はあそこだけはもとの式文にないのです。今日のマタイの福音書の、最後の部分をもとに、つけさせてもらいました。不思議なことにイエス様は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださった。そう言いながら天に昇ってしまう(キリストの昇天)。共にいると言いながら、離れてしまう。神様が約束を破ったのですか?いえ、そうではないのです。

 

聖書の神は、三位一体の神とも言います。父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神です。単純な分け方は良くないのですが・・・

旧約聖書の時代、父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。

新約聖書の福音書の時代、子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。

そして、その後は、聖霊なる神が、私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。

どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださるほどに、神が人を求められたのです。

 

<約束の実現>

イエス様は他にもたくさんの約束をしました。その約束は聖霊が与えられることによって、聖霊なる神として、イエス様ご自身が私達と共にあり、私達の内にいてくださることにより実現します。

 

心の満たしの約束

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13~14

 

知恵と平安の約束

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:26~27

 

キリストに似たものとされる

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章17~18節

 

聖霊は私たちを造りかえてくださいます。実際、聖霊を受ける前と後では、弟子達は別人のようです。使徒の1章では、国を再興してくれと、豊かさや自分の願いばかりを求めていたのに、2章では乏しい人に分け与えて生活している。それまで恐れ部屋に閉じこもり鍵をかけていたのに、2章では大胆に人の前に出ている。最後には、敵対する思いを超えて、違う民族の人を祝福しようと命を懸けます。

もちろん彼らは依然として完璧ではありません(聖霊を受けた後の、失敗談も聖書にはしっかりと記されています)しかし、確実に変えられはじめたのです。キリストの心に。キリストの歩みに。

 

<特権を用いる>

こんな特権が与えられたのですから、あとは用いるのみです。(素晴らしい聖霊が内に住んでくださりながら、働いていただかない信仰者の例として、客船に乗りながら、提供される素晴らしい食事やサービスがあると知らず、ひもじい思いをした旅人という話を聞いたことがあります。)

みなさんは謙遜ですから、私は聖霊を受けつつも、キリストの姿に変えられていない。聖霊の与えられた特権を用いていない、と思うかもしれません。

けれど「聖霊が働いていないところではなく、聖霊がすでに働いてくださっているところに、目を向けなさい。」(聖霊の不在ではなく、聖霊の臨在に、)というすすめを聞いたことがあります。あれが、これが十分ではないと、自分や人に失望するのではなく、あなたに、人に、すでにどのように働いてくださっているかに注目してください。

 

私が初めてクリスチャンに出会ったのは、確か大学生の頃です。彼らの言葉から、振る舞いから、自分にはない土台があることを感じました。しなやかさ、思いやりの心に驚かされました。彼らは大学生ですし、当然完璧ではありません。学ぶべきこと、経験すべきことも、まだまだあります。しかし、キリストのかおり(Ⅱコリント2:15)り、のようなものを感じる瞬間があったのです。

 

ヘブライ語では霊とは、息とか風を意味する言葉です(exヨハネ3:8)。わたし達は風を見ることは出来ませんが、揺れる枝葉や音から存在を知ることが出来ます。同じように、聖霊なる神様も、信仰者の言動から感じることが出来るのです。

聖霊が内に住んでくださること、それは素晴らしい特権です。そして、私たちはある面ではそれを使っている。まずそこに感謝しましょう。そして、まだ働いていただいていない面は、今日から求めていけばいいのです。

 

聖書に出て来る、ベテスダの池で心も身体も長年伏せり、諦めきったこの人は私たちに似ています。

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6

失望や諦めをこえて、「はい、良くなりたいです」、と神に答えたところからまた新たに、聖霊なる神さまの働きが、私達の内側から始まるのです。

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