5月16日のメッセージと補足資料

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本日のメッセージ:斎藤義信さん

メッセージ後には補足資料もあります「後の者が先に、先のものが後に」

 

2021年5月16日 マタイの福音書20章1節~16節「神の愛の平等性」

 

  1. 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。2.彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。3.彼はまた、九時頃に出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。4.そこでその人たちに言った。「あなた方もぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから。」…… 8.夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。「労働者たちを呼んで最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」9.そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。10.最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリであった。11.彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。12.「最後に来た者たちが働いたのは一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けつくような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」13.しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。14.あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。15.自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」16.このように、後の者が先になり、先の者が後になります。

 

「ぶどう園の主人の様子」

ぶどう園の主人(神様)はそれぞれの時間帯に市場に出かけて行き、労働者(人間)を探し、一日一デナリの報酬の約束でぶどう園に送り込みます。夕方になり、最後に来た労働者から一デナリの約束の報酬を払いました。主人としての務めを果たしたのです。

 

「労働者たちの様子」

彼らは一日の労働を終えて主人から約束の報酬をそれぞれいただきました。しかし、そこで問題が持ち上がりました。最初に来た労働者たちが最後の者に対して一時間しか働いていないのに同じ一デナリでは割が合いません。と言って不満をもらしました。不平不満の原因は平等の中からは生まれません。

 

「不平不満の原因」

最初に来た労働者たちは暑い炎天下の中で慣れない仕事をしかも長い時間、一生懸命に働きました。彼らから出る不満は当然でありました。不満を募らせた労働者は、今日一日の仕事にありつけ、約束の報酬もいただくことができた、と考えれば本当は、不平不満は出てこなかったはずです。主人は約束通りの報酬を最後に来た者から最初に来た者にも同じようにしてくださいましたから。

ところが彼らは、それは不平等だ、不当労働行為だ、と声を荒げました。なぜそうなってしまったのか?この平等ということを考えるときに彼らは大切なことを忘れていました。

第一に恵みによって雇われた、という主人に出会うまでのことを忘れてしまっていました。それは市場で主人に出会う前は今日一日の仕事に有りつけるかどうか、わかりませんでした。ところが、運よく主人に見つけ出されてぶどう園に送り込まれました。

第二には後から来た労働者と自分たちを比べた点に問題がありました。それは不平等であると考えました。しかし、実は私たちの平等性を決める基準は曖昧なところがあります。

他人と比べて自分はどうなのか、一番簡単な方法ですが、それは正しい評価をすることが出来きない難しさがあります。

最初から働いていた労働者たちは他の者たちに比べて厳しい暑さの中人一倍働いたという自負がありました。それなのに主人の評価はこれだけか…。同じ一デナリをもらっていながら自分は損をしたような気持になってしまいます。気持ちの持ち方というか、人の心の狭さを感じます。

しかし、本当に求められることは仕事を与えてくださった主人に対する忠実さです。人と比べてどうなのかではなく、主人である神様にもまた人の前にも誠実さを示すことです。

「…よくやっと。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。マタイ25/21」と言われています。

私はこれだけのことをやっている。あの人と比べてこれだけのことが出来ている。と言いながら自分を納得させるところがあります。人それぞれです。しかし神様の愛はすべての人に平等に与えられていて私たちが考える以上に等しく、備えられています。人の目から見れば不自然な不平等なようにしか見えないのですが、実は神様の平等さはそこにあります。

20/14「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも私が、気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」神さまの愛の深さのお言葉です。

「神様との出会い」

私たちが長い人生の中で神様とお出会いする時の時間差があります。ある人は若い幼い時に、またある人は血気盛んな青年期にまた、ある人は、人生の終焉の時に人それぞれ信仰に導かれる「時」の違いがあります。このマタイ伝では朝早くに、9時、12時、3時、そして5時にそれぞれ主人に見つけ出された時間に違いがあります。そしてその後の歩みにも違いがあります。一生懸命に働きながらも楽しく快い時もあるでしょう。また逆に厳しく辛い歩みも時もあるでしょう。20/3節の9時に市場にいあわせた労働者は「何もしないで立っていた」とあり、6節では主人に「なぜ一日中何もしないで立っているのですか」と問われると「だれも雇ってくれないからです」と言わば

 

人生の歩みを諦めていました。社会的責任、この世で行うべきことはことごとくやって来た、しかし、肝心な心の魂については何も行わないできた。人生の虚しさだけが残っていた。実は主人である神様はそういう一人一人の様子をつぶさにご存じであられ、選び出してくださり、「あなたもぶどう園に行きなさい」そう言ってくださいました。早い内に雇われる人も人生の半ばや最期に雇われる人も主は等しくご自愛を掛けてくださいます。神様に出会うのが早いとか遅いということは問題ではありません。見つけ出された時がその時なのです。この神様の愛に育まれて新たな一週間も歩んでいきましょう。

 

 

「最後の者を先頭にする神~神は善いお方~」

 

 

「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」マタイ19:30

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」マタイ20:16

 

社会的にも宗教的にも立派な金持ち青年や何もかも捨ててイエスに従た熱心な弟子達と

当時は低く見られていた何の功績もないこども達、取税人、遊女

とが対比されていて、福音の本質ともいえる箇所です。

 

*19~20章は連続話であり、切り離して理解することは出来ません。こどもへの祝福、金持ち青年や弟子達の問答、そしてぶどう園の主人の例え話は、深く結びついています。

*原語のギリシャ語では、先とは「最初」、後とは「最後」を意味します。

 

結論から言うと

先の者(最初の者):神の国に最初に入ると考えられていた人:宗教家、祭司、金持ち

後の者(最後の者):神の国から最も遠いと考えられていた人:取税人、遊女、病人、罪人、こども、

であり、少し後の21章では

 

「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」マタイ21:31~32

とあるように、神の国から最も遠いはずの取税人、遊女が一番に永遠のいのちを受け(神の国に入る、と同じ意味)、神の国から最も近いはずの宗教科や金持ちは、神の国に入るのが非常に難しくなったのです。

 

では、なぜ最後の者が先頭になり、先頭の者が最後になるのか。

 

それは先の者の代表であった、金持ち青年とイエスの会話に表れています。

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 

一見ちぐはぐな受け答えですが、イエスは、永遠のいのちとは人間の考える「良い」(ギリシャ語のアガソス)ことをしてご褒美に受け取るものではなく、「良い方」(同じくアガソス)である神が一方的に与えてくださるのだ、と金持ち青年に気付いてほしかったのです。

当時財産は神の祝福と考えられていたので(そして神に祝福を受けた者=金持ちこそが先頭で神の国に入るのだと考えられていたため)、金持ちは自分の立派さや財産の豊富さに頼り、神に頼れませんでした。財産が神に頼る妨げなっていたため「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。・・・金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:23~24)と言われたのです。

 

イエスが言った、戒めを守りなさいとは、神の前に自分は正しく歩めていないと気付いてほしくて言ったのですが、青年はそんなの出来てますよ、と高慢な答えをします。

そこで、その高慢さが財産から来ていると見抜いてイエスは、貧しい人に財産を全て分け与えてから従いなさい、と言ったのです。

この青年は悲しみました。けれど、それが彼にとっての救いの始まりなのです。善い行いや財産でなく、良い方に頼るための、第一歩なのです。

 

残念ながら、弟子達も「私たちは頑張ってイエスに従ったから大きな報いがあるよね。」、と金持ちと似たような考えでした。それで、後の者が・・・の話をしたのです。

 

そして、ぶどう園の主人の話へと続きます。最も働きのない者が、働きのある者と同じ報酬を、しかも最初にもらう逆転の話です。ポイントは最後の主人の答えです。

 

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいい(直訳:良い:アガソス)ので、あなたの目にはねたましく(直訳:悪い)思われるのですか。』」(マタイ20:14~15)

 

働きのほぼない者が報酬を受けた理由は、主人が気前がいいからでした。これは直訳では「私が良いから」、となります。同じ「良い」(ギリシャ語のアガソス)が使われています。良い方から一方的に、不条理に与えられる、それが恵みであり、福音です。

 

わたしはよく、神が良い方、とメッセージで言いますが、具体的にはどのように良い方なの?と尋ねられたことがあります。一言では難しいのですが、この恵み深さ、気前の良さ、力ない者への憐みこそが良い方の本質のだと思います。

 

私達はルカ15章の放蕩息子の兄息子のように、神様は、気前が良すぎてズルいなぁ、と思うかもしれません。私達の中にも、金持ち青年や弟子達のように、自分を誇る思いがきっとあるでしょう。

けれど、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)のです。

私達は功績のない最後の者だったかもしれませんが、取税人、遊女、罪人のように、神の恵みを受けて、最初の者とされたのです。

だから忘れないでください。神は善いお方、気前の良い方であり、神の良さによって、私達はただ愛され、受け入れられ、子とされ、神の国に入れられたのです。

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