3月14日のメッセージ

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2021年3月14日 「十字架の上の7つの言葉①」

 

15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。   マルコの福音書

 

 

<キリストの苦しみを通して>

先日の3月11日で震災から10年となりました。様々な自然災害、昨年からのコロナ禍、その他私達の毎日にはそれぞれの困難があります。震災や疫病などの時、自分の周りに望ましくないことが起きた時や、自分の願いが実現しない時、神はいない、という主張を聞きます。(信仰者の場合は、神に見捨てられた。)やりきれない気持ちの表れだと思いますし、どちらの主張にも頭に浮かんだ経験があります。

 

しかし、私達の信じる神様は十字架で死なれた不思議な神様です。その生涯は、苦しみに満ち「悲しみの人」と呼ばれた不思議なイエス様です。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53章)

 

そのイエス様は死の直前に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言われました。これはただの叫びではなく、旧約聖書詩編22篇の最初の部分です。(日本人が、いろはにほへと・・古池や・・・と聞いて続きが言えるように、ユダヤ人なら詩篇22篇が全て頭に浮かびました。)イエス様は十字架を、その痛みに満ちた生涯と死を、人間の視点でなく、神様の視点で私達に捉えてほしかったのです。

同じように、以前こう聞いたことがあります。「自分の限られた視点だけで苦しみを捉えるのでなく、キリスト苦しみに目を向け、キリストの苦しみを通して、あなたの苦しみを捉えなおしなさい。そのとき私たちにとっての苦しみの意味が少しずつ変わってきます。」と。4月4日のイースター(復活祭)に向けての受難節。十字架の上でイエスが話した7つの言葉を通して、神の苦しみ、キリストの苦しみに、目を向けたいと思います。

 

<悲しみの人キリスト>

イエス様は、私たち以上に、苦しみました。悲しみました。私達が神に見捨てられた、と思うような状況を何度も経験しています。

貧しさや乏しさ、先への不安を嫌というほど経験しました。若くして父を失い、母や兄弟からも誤解されました。親族であり唯一の友人ヨハネは殺されました。人々から批判され、暴言を吐かれ、脅迫されました。弟子たちはどんどん離れていき、ユダには裏切られ、12弟子には逃げられ、一番弟子のペテロには、3度も知らないと言われました。不当な裁判にあい、死ぬほどの鞭を打たれ、侮辱されました。裸で十字架にかけられ、出血多量や呼吸困難、ショック症状に見舞われ、死への恐怖を体験しました。。

 

私達は痛みを経験すると、心も、頭も、視野も、小さく狭く縮こまってしまいます。しかし、キリストが痛みや悲しみを身をもって知っておられること、私たちの救い主が「悲しみの人」と呼ばれたことは、まるで暗く閉じた部屋の小さな窓のようで、開くなら私達の心に光が射し込みむのです。

<イエスの考える“見捨てられた”>

また不思議なことがあります。イエス様は、一つ一つの悲しみや苦しみを指して、すぐに神に見捨てられたとは言わなかったのです。イエス様がそう言ったのは、午後三時、暗闇の中で、死の直前です。

イエスが本当に恐れ、悲しみ、絶望したのは、裏切りでも、恥でも、喪失でも、痛みでもありませんでした。イエスが恐れたのは十字架の上での暗闇でした。12時から15時までの暗闇は、エジプトへの災いや黙示録に代表される神の裁きであり、十字架の死とは、のろわれ神から切り離される(ガラテヤ3:13)ことを意味したのです。

 

イエス様は、乏しくても、誤解されても、非難され、脅迫されても、喪失を経験しても、神様との交わりの中で生きていました。神様との絆がある限り、イエスは安心でした。しかし、私達の罪を背負い、罪人として神様から切り離されたとき、イエス様は動揺し、叫んだのです。

 

私達は自分達の悲しみや痛みや喪失や恐れを、軽視しなくて大丈夫です。同時に、イエスがそれら身をもって味あわれたこ、そして、イエスが何より失うのを恐れたのは、神様との絆であったことをどうかで覚えていてください。私達にはイエスをどんな時も生かしたその絆が残されているのですから。

 

<キリストへのNOは世界へのYes>

マタイとマルコでは、イエス様の言葉はこの一言だけです。しかし、この一言が、またイエス様の姿が全てを物語っています。イエス様は神様とのつながりを失うのを恐れました。人々は、自分を救え、十字架から降りてみろと迫ります。それでもイエス様は十字架から降りません。

 

イエス様の心には、私達一人一人の顔が浮かんでいました。その肩には、私達一人一人の罪を背負っていました。痛みの中でも、自分の死を前にしても、十字架から降りる訳にはいかなかったのです。

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2:24)

 

この世界で最も貴重だけれど、決してお金や努力では得られないものがあります。それは、神との絆です関係です。神の子の資格です。キリストはそれを自ら手放し、私たちがそれを得ました。

一度聞いて頭から離れない言葉があります「キリストへのNoは、世界へのYesである。」

神様の視点からすれば、この世界で唯一見捨てられたのはイエスだけです。私達のどんな罪も、赦されるため。私達が見捨てられないため。神から切り離されないため、イエスが身代わりに神に見捨てられました。

 

生きている限り、神の愛を疑いたくなる状況は多くあります。しかし、神はその愛を、キリストの痛みと苦しみを通して表しました。それが十字架です。十字架のゆえに、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)と誓われているのです。

 

<今週の黙想>祈る時、十字架のキリストに向けて祈ってください。

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