3月21日のメッセージ

IMG_20210320_154135
おざく台教会では、緊急事態宣言解除に伴い、礼拝堂を大人10名までで、ZOOM中継を同時に行っています。
ご希望の方はお問い合わせください。
2021年3月21日「十字架の上の7つの言葉②」
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
<ファミリータイム>
人との間で嫌なことがあった時、どう思うかな?イエス様はどうしたかな?
クイズ 1泣いた 2悪口言ってつばはいた 3雷を落とした 4祈った
正解は4です。イエス様はお祈りしました。まずお祈りしてみよう。何でも祈っていいんだよ。
悲しくなったり、イライラしたり、言葉や行動で攻撃する前に。藁人形に釘を打つ前に。思いは神様にぶつけよう。神様がちゃんと受け止めてくれるから。
そして、イエス様が十字架で釘打たれてくれた。
そして、本当に言うべきこと、本当にすべきことを教えてもらえます。人がきくべき声は?
クイズ 1.自分の声、2.人の声、3.悪魔の声、4.神様の声
神様からの力で言葉で、生きてください。いつかイエス様の心が自分の心になる日まで。
<まず天を見上げる>
 コロナ禍でイレギュラーな今年度は、忙しく、変化も大きく、余裕を失っていたからでしょうか、人への否定的な思いが心を満たすことがありました。(感謝すべきことは、はるかに多かったのに、もったいないですね。)生きていれば、人間同士の難しさは避けられません。自分が至らなかったとき、互いに余裕を失っている場合、誠実を尽くしても誤解される時、様々でしょう。そんな時、自己憐憫に陥る前に、藁人形にくぎを打つ前に、相手を攻撃する前に、いえ冷静に対応する前にさえ、私達はすべきことがあるのです。
 十字架の上での7つの言葉。イエス様の最初の一言目がこの祈りでした。イエス様だからできた・・・とは言わないでください。イエス様は100%神でありながら、100%人となった方です。痛みも、苦しみも、恥も嫌と言うほど味わいました。それでもまず天の父に目を向けたのです。
 もちろんイエス様と同じように祈れなくて大丈夫です。感謝や願いだけでなく、疑問や不満だって祈っていいのです。聖書には、呪いの詩篇と呼ばれ、自分に敵対する者への呪いや罰を神に祈る祈りもあります。(詩篇69篇や109篇など)ちょっと驚くような内容ですが、それらが聖書にあることは、私たちへの神様からの招きです。神様は、私達の心が硬く閉じこもる前に、煮詰まる前に、復讐に走る前に、その思いを神に向けなさい、と招いてくれているのです。
<天を見上げ神の心にふれる>
イエス様は十字架で、父よ、と天の父を見ました。何か困難があった時、わたし達は自分の視点や、人の声ばかりに目が向きます。けれど、イエスは、自分がどう思うかではなく、神が赦すことを、神の視点を気になさいました。すぐにイエス様のように祈れなくても、大切なのは、自分でも、相手でもない、神様の心に触れること、神の語りかけを聞くこと、神様の視点を教えてもらうことです。
人は4つの声を聞くと言われます。1.自分の声、2.人の声、3、悪魔の声、4.神の声。1~2の声には、良いものもあるかもしれませんが、私達を苦しめることもあります。3は論外です。けれど、4の神様の語りかけを聞く時、わたし達は狭くて小さい自分の考えから引き上げられるのです。
自分がこの状況をどう見るか、人が自分についてどう言うか、それも大切かもしれません。しかし、人々が自分は正しいと思いながら、キリストを十字架につけたように、私達人間は自分が何をしているか、自分がどんな状態か、本当の意味で分からないのです。だからこそ、神様がこの状況をどう見ておられるのか、どう言っておられるかが大切にしてください。
<神に受け入れられて生きる>
そして、神があなたについてどう見ているかをまず味わってください。困難な道を歩む時、重荷を負う時、人からの言葉や態度によって、私達は身体だけでなく、心や魂が疲れ傷ついています。人から受け入れられていないと感じ、自分でも自分を正しく受け入れられません。
 だからこそ今日の祈りが必要です。キリストはこの祈りを私達のために祈ってくださったのです。人を赦す前に、自分が赦されているのです。赦す、という言葉が少しピンとこなければ、受け入れ共にいる、と言い換えてもいいでしょう。
自分で意識せずとも、神から離れ、神に背いている私達を受け入れ、離さないために、永遠の絆を結ぶために、イエスが身代わりに十字架につかれたのです。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。・・・  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ローマ5:6,8」
 この十字架の第一声は、私のためにも祈られている。十字架でイエスは私を永遠に受け入れてくださった。私達が生まれるはるか前に、私達が聖書を手に取る前に、私達が祈る前に、私達が神や罪を少しでも悟る前に、イエスは十字架で私達のために祈られた。
<神とともに受け入れて生きる>
そして、神様の取り扱いの中で、癒しや慰めを受けてはじめて、少しずつこの十字架のイエス様の祈りに、歩みに、近づけられていきます。簡単ではないでしょう、でも不可能ではありません。
実際に、ステパノという初代教会の人物は、石打刑でまさに殺されようという時に、自分に石を投げる者たちのために「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)と祈り殺されていきました。実際に、ステパノを殺した中には、後の使徒パウロがいたのです。ステパノの祈りと死は、むだではありませんでした。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24私達は、重荷を負ったり、批判されたり、泥をかぶったり、日々小さな死を経験しながら生きます。けれど、天を見上げるなら、その死は豊かな実を結ぶことにつながるのです
Top