8月30日のメッセージ

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2020年8月30日「困難の時に知っておきたい聖書⑬~呪いではなく、祝福を~」

 

<聖書 詩篇127篇&マタイ6章>

27:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。 127:2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

 

6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 

<ファミリータイム 創世記>

29:34 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから。」と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。 29:35 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。

30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」 30:2 ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」 30:3 すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう。」

 

<たとえ一生懸命でも>

コロナ禍の影響がわたし達に現れてから半年がたちます(全国の学校が一斉休校になったり、教会が会堂での礼拝をお休みしたのもちょうど半年前でした。)。この半年いかがだったでしょうか?

様々な対応が迫られ、心身ともにいつも以上に負担が大きかったと思います。この半年、わたし達のは様々な意味で、自分や周囲の人を守るために必死でした。その姿は、今日のファミリータイムのお話しにどこか似ているように感じました。

 

ヤコブも、レアも、ラケルも、みな必死でした。ヤコブは生きていくために、ラケルとレアは夫の愛を獲得しようと、ラバンは一族の安定を求めて、みな自分を守るために、一生懸命に頭と身体をフル回転しました。偽ったり、欺いたり、ありとあらゆる手を使います。

必死なのは、一所懸命なのは良いことです。けれど大切な心が忘れられていた気がします。

彼らはそれなりの結果(豊かさ、こども、後継ぎ)を手に入れます。一方で、対立や恨みがより深くなり、自分の心も互いの関係もボロボロになりました。そして、だまし合い、憎しみ合いは、こども達にも引き継がれるのです。聖書を読んでいて、これほど落ち込む箇所もあまりありません。祝福の源となるべきヤコブとその家族ですが、この家族を通して神様の愛を体験できるでしょうか?

<忘れてはいけない心>

ヤコブ達のあり方を見ていて、「むなしい」、「むなしい」と繰り返される詩篇127篇が浮かびました。家を建てること、早起きをすること、辛苦の糧を得ることは、本来良いことです。しかし、「主がするのでなければ」「神様抜きで行うならば」それはやはりむなしいのです。いのちが無い、実りが無い、のです。祝福ではなく、呪いをもたらすことが多いのです。わたし達はどうでしょうか?

 

神は私のことやこの状況をどう考えておられるか?キリストならばどうなさるか?そういった心がない時、わたし達は自己中心となり、呪いをもたらす選択をしがちです。わたし達の言葉や行動は、人を傷つけるものになりがちです。良い事をしたい、良いものを生み出したい、祝福となりたいと願いつつ、そうなれないのです。

 

けれど、今日の箇所で唯一救いとなるような箇所があります。それは、

29:35 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。

今まで、子を産むことで夫の愛を妹から奪い取ろうとしていたレア。ユダの前に3人の子を産みますが、名付け方が特徴的です。

ルベン:「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」29:32

シメオン:「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」29:33

レビ:「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから。」29:34

一応「主」と出てきますが、私、私、私とどこか自己中心な響きがあります。この姿が自分も家族もおかしくしていきました。

しかし、4人目のユダを産んだとき、「今度は主をほめたたえよう。」(今度は、私は主をほめたたえます。:新改訳2017)と神に心が向いているように見えます。そして、子を産まなくなりました。まるで、レアが大切なことに気付いたかのサイン(しるし)のようです。(結局レアは、出産競争の中で、再びもとのような争いの心に戻ってしまうのですが・・・少なくともこの時はキラリと光る信仰のきらめきを見せました。)

そして、長男のルベンでもなく、次男のシメオンでもなく、三男のレビでもなく・・・四男のユダから、レアが神に心を向けたこどもから、後のダビデ王が生まれます。そして、やがてキリストが生まれるのです。(現代よりはるかに血統や長男というものが優位だった古代において)、血ではなく、信仰がいのちを生み出したのです。

 

今日紹介した詩篇127篇は、努力を否定しているのではありません。神様抜きのむなしさと危うさを強調します。そして、その後すぐに、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と必ず神が善くしてくださるから安心しなさいと私たちを励まします。

 

空の鳥を、野の百合を見よと言われたイエス様に似ていますね(マタイ6章26節~)。そこには小さなものを愛し、守り育む神の愛が見えるからです。この愛はもちろんわたし達にも注がれているのです。それを覚える時、わたし達はのろいではなく、祝福を、いのちをもたらす者になれるのです。

 

<今週の黙想>マタイ6:26~34を自分への語りかけとして聞き、毎日をスタートしてください。

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