7月26日メッセージ

 

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2020年7月26日「困難の時に知っておきたい聖書⑧~神はあなたの友~」

 

<聖書 ヨハネの福音書>

15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 

<ファミリータイム 創世記>

18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。 18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。 18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。 18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」 18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。 18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。

・・・

 

<孤独を得る時>

わたしたちは、コロナ禍によって、人との関わりが制限されました。電話やビデオ通話もあり問題ないという人もいるでしょうが、以前のように顔と顔を合わせて、相手を近くに感じることが出来ず寂しい、支えとなっていた友との関わりが断たれ寂しさを感じる、そんな声を聞きます。

けれど、最近気付いたのですが、聖書の人物はみな孤独です。人里離れた荒野に一人でいる場面もよく出てきますし(ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、エリヤ、イエスなどキリがありません)、人に囲まれていても理解されない(弟子達の中のイエス、イスラエルを率いたモーセなど)場合もあります。いつもではないですが、その人の生涯の大切な局面で孤独を味わう時があるのです。

わたしは孤独を悪いことだと考えていました。しかし、ある牧師が「孤独を得る」と表現していて、ハッとしました。荒野は神との出会いの場、困難は神との出会いの時でもあるのです。

 

<友である神>

孤独の中で近い人や友を求める時、わたし達は最も大切な友の存在を、誰より近しい方の存在を忘れがちです。聖書の神はアブラハムを「わたしの友、アブラハム」イザヤ41:8と呼びます。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」出エジプト33:11と語ります。

神にとって人は、私たちは、子でもありますが、親しい、近しい友でもあるのです。

わたし達人間は、神を天高く、はるか遠くの存在として考えます。もちろんそういう面もある。しかし、神様は豊かな方です。キリストは告げます。

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15:15)

今日は、神が友と呼んだアブラハムと、神との友情を見ていきたいのです。その友情は私たちのものでもあり、孤独や困難の時の土台です。

 

<神はあなたの友>

友の定義のを調べると「互いに心を許し合う」とありました。親しさや近しさ、自分の心を開き、相手の心を大切にする、とも言えます。(幼稚園では、友達や仲良しを持つことが大切です。今まで自分が世界の中心だったのが、大好きなお友達の表情や言葉、心を気にし、気遣ったり、思いやったりすることを学び、行動を合わせたり、おもちゃを譲ったりするようになる。友への思いが、自分を変えてしまう。友情の力はすごいのです。)

 

友である神様は、わたし達の心を気にし、自分を変える方です。

創世記18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

神様がアブラハムの心を気にしている。自分のソドムへの対応を、アブラハムがどう思うか気になって仕方なく、告げようか告げまいか自問自答している。この場面がとても好きです。

神様なんだから好きにすればいいじゃないか?いやそうではありません。それならただの主人と召使いです。しかし、神はわたし達の友となりたい。同じ心でいたい。だから自分の心を伝えるのです。

神様はわたし達の心を、気にかけている。自分の心を押し付けるのでなく、明らかにし、心が重なることがあると喜ぶ、そんな方です。

 

そしてわたし達の心が大切だから、わたし達と近くにありたいから、自分を変えてしまう。先ほどのキリストが、弟子達を友と呼んだのは最後の晩餐の場面です。弟子達、わたし達の身代わりに十字架にかかる前の夜のことです。キリストはこうも言いました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ヨハネ15:13

友の定義には「対等に交わる」ともあります。キリストは、神は、対等どころ、はるかにへりくだり、わたし達のために十字架にかかりました。わたし達のためにご自分を変えられました。神はあなたの友なのです。

そして、このキリストに表された神の友情のゆえに、わたし達のほうからも神の友になりたいのです。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」エペソ3:12

 

<あなたも神の友に>

今日の場面でアブラハムは神さまと話し合いました。

ソドムには悪に染まり切っていない人もいるはずだ。50人いれば見逃してほしい。いや5人足りないかも。45人でどうだ?いや40人では?30人では?20人では?いや10人ならどうだ?

よくお店での値引き交渉に例えられますが、ただの交渉とは違います。交渉には人格が伴わない。友情がない。これは友達の会話です。アブラハムは、この方なら聞いてくれる、そう信じていたのです。わたしの思いを伝える価値がある。正直な自分の心に、応えてくれる。そう信頼していました。

信仰とは相手への信頼です。無難な祈り、信頼なしの祈りをしていないでしょうか?

 

神様はアブラハムとのやりとりが嬉しかったのだと思います。アブラハムはただの願いの押し付けではありません。神様のご性質に基づいていました。

創世記18:25「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」

友である神の人格に信頼したのです。アブラハムは自分の友がどういう方か知っていました。そして、大胆に神に近づきました。神様が喜ばないわけがありません。

(以前新聞の4コマ漫画で、神社に恋愛成就をお願いに着たカップルがいて、神主さんが、うちは交通安全が専門なんだけれど・・・というお話がありました。微笑ましいお話しですが、私たちも自分の願いに終始して、相手の人格や性質を無視した一方的な関わりになっていないでしょうか?)

 

<今の時がやがて生きる>

創世記も22章に近づいてきました。アブラハムの人生のハイライトとなる出来事、その決断に神との友情が助けになったことは間違いありません。

すべての関係もですが、友情とは、持てば終わりでなく、そこから深まるものだと思います。今の時期は、ただ自粛し、停滞し、無駄に過ごしているわけではありません。(個別に体験する困難な時期も)神との友情において深まる時、神に近づく時としてみてください。

 

<今週の黙想> 聖書を開き、言葉の一つ一つに思いを留めながら、神様がどんな方か思い巡らす時をもってください。そして、気付かされた神のご性質に基づいて大胆に祈ってみてください。

 

参考までにピリピ書を載せます。

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 

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