7月19日のメッセージ

 

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2020年7月19日「困難の時に知っておきたい聖書⑦~忍耐のコツ、神とのディスタンスは?~」

 

 

 

<聖書 ヘブル書>

 

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 

 

 

<ファミリータイム 創世記>

 

16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。 16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。・・・16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

 

 

 

17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、・・・17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

 

 

 

<神様とのディスタンス>

 

なかなか感染状況は落ち着きません。ある人はコロナとの戦いを42.195キロのマラソンに例えましたが、今は何キロぐらいでしょうか?コロナだけではありません。私たちには、我慢や忍耐を求められることが多くあります。今日の箇所で、聖書も信仰の歩みを、競走(マラソン)に例えています。

 

しかし、我慢や忍耐は心のエネルギーをものすごく消費し、その影響が生活の様々な面に表れていると、心療内科の医師が語っていました。みなさんの生活にはどんな影響が出ているでしょうか?今日注目したいのは、人との、また神との距離です。

 

 

 

今年生まれた言葉に、ソーシャルディスタンス、社会的距離、という言葉があります。話題を呼んだ川柳には<夫とは、とっくに心も、ディスタンス>とあり、困難がもたらす心理的な距離に注目していて面白いと思いました。では、私たちは神や人との心理的な、霊的な距離はどうなっているでしょう?<イエスとは、とっくに心も、ディスタンス>となっていないでしょうか?その影響が生活にも表れていないでしょうか?

 

 

 

今日のファミリータイムでも、アブラハムは心のエネルギー切れを起こしました。神様の約束を受けたアブラハム。世界の祝福の源になるという使命を受けたアブラハム。しかし、10年という時を経て、神様に期待するのを止めてしまったのです。

 

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)とありますが、神様は認めるけれど頼りにならない、自分の子孫が増え世界中の祝福となるなんて約束どうせ無理だろう。それならば!と神様の約束を放り投げ、使用人の女性によって子孫を残そうとしたのです。

 

もちろん、自分達が頭を使ったり、努力をしたりしてはいけない、という意味ではありません。けれど、それが神様抜きの行動なら、神様への信頼に基づいていないなら、どこか私たちをおかしくしてしまうのです。せっかく子どもを産んだ使用人の女性をイジめ、夫婦の溝は深まり、後々まで続く家族問題を抱えていきました。神様との距離が広がると、人と人との距離も広がってしまうのです。

 

 

 

<のろいではなく、祝福となって>

 

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」ヘブル10:36。 信仰の父とも呼ばれるアブラハムは、忍耐できなくなりました。忍耐の源である、信仰、神様への信頼を失っていたのです。自分だけが我慢している・・・神様は苦労だけをさせる・・・私はかわいそうだ・・・そんな思いを抱き、神様との距離が広がりました。私たちもそう考える時はないでしょうか?

 

 

 

アブラハムは大切なことを忘れたのです。アブラハムの人生は自分だけの所有物ではありません。神様の良いみこころをいっしょに実現する、神様と2人3脚の歩みのはずでした。ただ子孫が増えるのではない、ただ自分だけが幸せになるのでもない、他の人も祝福されていく、他の人も祝福の源である神様と出会っていく、そんな歩みです。それなのに自分が神を信頼できない。逆に、周囲を苦しめていく。(このままでは創世記22章の選択はありえませんでした。)一緒に走ってくれる人を拒み、目指すべきゴールも間違えた、人への祝福(創世記12:3)どころか、呪いとなっていたのです。

 

 

 

<神の忍耐>

 

私だけが苦しんでいる・・・神は何もしてくれていない・・・そう考えてしまう時、信頼を失い、忍耐を諦めたくなる時、今日の箇所を忘れないでください。

 

そこには私達人間のために、忍耐された方、キリストについて語られています。どれだけ人間が反抗しようが、罪が深く神から離れてもても、私たちから距離を取らず、十字架にまでかかってくださった。どれだけアブラハムや信仰者が神様の約束を放り投げようが、諦めず、投げ出さず、関わり続けてくださった。それが私たちの神様。

 

 

アブラハムとサラが冷たく追い出したハガルを、守り助け、アブラハムの罪の尻拭いをしてくださった。アブラハムとサラを諦めず、関わり続けてくださった。

 

 

 

ヘブル11章の信仰の人々を受けて、12章では信仰に歩んだ多くの証人とされていますが、よくよく見るとアブラハムだけでない、みんな数々の失敗をした人。忍耐できず、何度も信仰を放り投げたような人達。けれど、彼らを信じ、忍耐し、諦めなかった神様がいる。どれだけ彼らが離れようと、「私は決してはあなたを離れず、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と言ってくださるイエス様がいる。

 

 

 

<元気を出して>

 

このイエス様が私たちから距離を取らず、いつも助けてくださる。ヘブル書にはそれが元気の源だという。パウロも、船が難破した時、「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」使徒27:25と励ました。

 

 

 

私たちの歩みは、一人ではなく、神が一緒です。不安な毎日も、神様との二人三脚、ぴったりくっついた歩みです。

 

私たちがではなく、神様が必ず実現してくださる。私たちが諦めても、神様が私たちを諦めない。アブラハムでさえ、弱る時は神様に支えられました。それを通して、神様が頼りになる方だと、いっぱい味わいました。失敗を繰り返しながら、神様への信頼が与えられていきました。

 

 

 

私たちも神様との距離が離れ、神の約束や、自分の使命を諦めたり投げ出したりしてしまう時があると思います。でも神様が今日この日も信頼を増し加えてくださるように祈ります。

 

 

 

<今週の黙想>朝毎にヘブル12:1~3を読み、キリストへの私たちへの愛と忍耐を思い返し、キリストと密になって一日をスタートしてください。

 

 

 

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