7月12日のメッセージ

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2020年7月12日「困難の時に知っておきたい聖書⑥~しなやかに生きるための信頼~」

 

<聖書 ヘブル人への手紙>

11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

<ファミリータイム 創世記>

12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。 12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。 12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

 

13:7アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。・・・13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。 13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。・・・15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。

 

<この時を無駄にならない>

東京の感染者も再び増加してきました。すぐに元通りとはいかず、もうしばらくは、様々な対応が求められそうです。戦争、震災、といった大きな出来事や、自分や家族など身の回りの出来事など、私達の考え方や生き方に大きな影響を与える出来事がありますが、コロナもその一つだと思います。後で振り返った時、今回のコロナは、私達にどんな影響を与えたと言うことになるでしょう?

 

ファミリータイムで読んだアブラハムは、3つの宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)から、「信仰の父」とされています。世界で見れば、人類の歴史の中で(イエス・キリストを除けば)最も重要な人物とされます。

しかし、彼は最初から信仰の父であったわけではありません。彼は、一つ一つの出来事を通して、成長していきました。上手くいったことも、恥ずかしく惨めな失敗となったこともありました。けれど、その一つ一つが、アブラハムを磨き、やがて人間の歴史を変えるようなある出来事(創世記22章)につながるのです。

同じように、いま私たちの体験する困難も、今だけのことではない、やがて大切な出来事につながるのだ、そう信じて歩みたいのです。

<失敗とは結果ではなく、聞く声を間違えること>

アブラハムは困難の中で、焦りと不安から、いくつかの失敗をしました。

神はアブラハムを、またアブラハムを通して人間を祝福すると約束し、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの交差点のようなパレスチナの地へと連れて、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」(創世記12:7)と誓いました。けれど、飢饉という大問題に直面すると、約束に地を離れあっさりと400キロも離れたエジプトへ行ってしまう。ここに神様の声は記されていません。自分の中の焦りの声に、従ったのでしょう。

そして、エジプトでは、妻サラの美しさを見たエジプト人が自分を殺して妻を奪わないかと心配し、妻を妹と偽って嫁に出してしまう。

ある牧師から「失敗とは結果ではありません。神様への信頼を抜きに行動することです」と教えてもらったことがあります。焦るのは仕方ない、不安でもいい、でも神様を忘れてはならないのです。

もちろんアブラハムは困難を乗り越えようと、必死だったのでしょう。困難に知恵や人脈を用いて、対応するのは大切です。しかし、妻を嫁に出してしまっては、神様の約束である子孫はどうなるのでしょう?これはただのウソではありません。神様の言葉を、神様の計画を放り投げるような行為です。(ちなみに20章でアブラハムは全く同じ嘘を繰り返します。)

 

けれども、不思議なことに神はアブラハムを見放さず、いのちを守り、むしろ豊かにし、無事にカナンの地(パレスチナ)に帰らせたのです。アブラハムは思ったでしょう。「ああ、神はこんな私を見捨てなかった。私によくしてくれた。」この体験は、アブラハムに一つの大切なことを教えてくれました。それは、「神は良いお方である。」ということです。

 

コロナ禍の中で、私達は、どの声に従っているでしょうか?自分の中の、焦り、苛立ち、落ち込み、怒りの声に従っていませんか?どうかその中でも、神様を、神様の声を忘れないでください。

いえ、たとえ、失敗したり、見失ったり、失望したり、神と人を傷つけたりしても・・・それでも神はお見捨てにならない。変わらず愛をもって関わり、日々恵みを注ぎ、今日も礼拝へと招いてくださる。「神は良いお方である。」事を知り、その方への信頼をもって、日々を生きたいのです。

 

<良い方に信頼してしなやかに生きる>

アブラハムはパレスチナに帰ると、今度は別の問題に直面します。それは、土地をめぐる争いです。幼稚園児が幼稚園の小さなおもちゃを巡って大喧嘩するように、国と国が神の造った世界の領土をめぐり争うように、アブラハムの労働者と、おいのロトの労働者が、神が与えてくださる地での家畜のエサ場の事で対立したのです。

また飢饉の時のように、不安や焦りにかられ行動するのか・・・と思いきや、アブラハムは年長者であるにも関わらず、先にロトに好きな場所を選ばせます。自分はロトが選ばなかったほうで家畜を飼うと言うのです。ききんの時とは別人のようなしなやかな対応です。

 

少し前の体験を通して、アブラハムには、良い方への信頼がありました。飢饉の時のように、自分があくせくしなくても、策を巡らして、偽ったり、人を押しのけたりしなくても、神はきっとよくしてくださる。そう信じて、ロトに先を譲ったのです。飢饉という困難、自分の恥ずかしい失敗、神への軽視、そういった出来事を通しても、神の憐みを知って、神を信頼するという意味で、成長したのです。

 

ちなみに、ロトは自分の目に良い場所を選びました。そして、そこには悪名高い町ソドムとゴモラの近くであり、ロトもやがてその町に住むようになります。

 

信仰とは、「信頼」を意味します。信仰と聞くと、「いわしの頭も信心から」のように信じる私たちの側に重点があるように聞こえますが、信じるという「エムナー」は、「エメト」、「真実」、「確かさ」から派生した言葉であり、私達が信じ信頼する側に重点があります。(ちなみに、神の言葉への応答である「アーメン」もエメトから派生しています。)

どれだけ自信を持っていても、壊れた椅子に座ればひっくり返りますし、薄い氷に乗れば冷たい水に落ちます。けれど、どれだけおっかなびっくりでも、丈夫な椅子なら壊れませんし、厚い氷ならびくともしません。私たちでなく、私達が信頼する側の確かさに全てがかかっているのです。

私達は良い方であり、必ず助けてくださる、この信頼を忘れずに、この方に「アーメン」と言って、困難の中でもアブラハムのように、しなやかに生きたいのです。

 

<命がけの約束>

私達の人生の困難がコロナだけで終わらないように、アブラハムにはその後も困難があります。だからこそ、神様はアブラハムと約束をします。契約を結びます。

当時の契約とは、動物を真っ二つにして並べ、契約を結ぶ2者がその間を通るのです。破ったら、この動物みたいにするからね。という意味だそうです。(怖いですね。)でも、契約とは命がけなのです。

しかし、神様はそこをお一人で通ります。「煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」(創15:18)

私が約束を果たすから。私がやり通すから。失敗しようと決して見放さず見放さない。君に責めを負わせない。私が責めを負う。そんな誓いに聞こえます。

そして実際に、どれだけ人間が失敗しようが、その責めを十字架で負った方がおられるのです。

 

アブラハムは失敗を通して、それでも神は良い方であり、どんな時も自分に関わり続けてくれると知りました。この後も何度も失敗をしますが、その度にいよいよ深く、神は良い方だと知っていきました。

私達の神は、命を懸けて契約を結び、決して見放さず見捨てない方です。「求める者には報いてくださる方」です。困難はあります。恐れや不安は避けられません。けれど、どんな状況の中でも、良い神様が私たちと一緒なのです。

 

<今週の黙想> 困難の時、危機の時、焦らず一息ついて、神の言葉に耳を傾けてください。その神の言葉に「アーメン」と言ってから歩み出してください。

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