6月28日のメッセージ

clone tag: 42504907705703367952020年6月28日「困難の時に知っておきたい聖書④~怒りだけでなく憐みも~」

 

<聖書 ルカの福音書>

6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

<ファミリータイム ヨナ書>

3:10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。 4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、 4:2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。 4:3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」・・・4:10 主は仰せられた。「・・・わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

 

<敵対する私達>

コロナだけでなく他のニュースにも時間が割かれるようになってきました。そこにはたくさんの対立が見えてきます。国と国、人種と人種、宗教と宗教、経済格差間の対立、思想の間の対立、コロナに対する対応の対立・・・意見の違いや対立を超え、敵対する場合もあります・・・

とはいう私達も、様々な対立を作り出します。何かの出来事や違いをきっかけに、相手を敵のように考えるのです。もちろん、私達にも、意見、言い分、理由があります。時には、片方にかなりの正しさがある時もあるでしょう。しっかりと意見を言ったり、対応すべきこともあると思います。ただ、同時に考えたいのです。怒りにかられるあまり、私達が神と心が離れてしまっていないかを。

 

<ニネベの背き、ヨナの背き:怒りの中で神に背を向ける私達>

ファミリータイムで読んだヨナにも怒る理由がありました。ニネベとはアッシリア帝国の首都です。神を信じず、恥ずべき行為を行い、他国を滅ぼす、恐ろしい国。神様、ニネベを決して赦さないでください。その数々の悪事に報いてください。それは自然な願いです。

けれど、神様はそのような国にヨナを送ります。悔い改めを告げるために。しかし、ヨブは船で正反対の方向タルシシュに向かいます。ニネベが怖いから?いえいえ、神があわれみ深いからです(4:2)。神がニネベを憐れんでしまうかもしれない。赦してしまうかもしれない。それに我慢がならなかったのです。そして、神に背を向け逆方向へ旅立ちます。「罪とは神に背を向けること」と説明してくれた牧師がいましたが、神を知らずに背いたニネベだけでなく、神を知っていたヨナまでもが、感情から神に背いてしまうのです。

 

<ヨナの救い:~私もまた救いを必要としている人~>

そこで神様はヨナに1つの体験をさせます。嵐の海に投げ込まれるのです。ユダヤ人にとって海とは混沌や裁きの象徴です。もうダメだ・・・そう思った瞬間、大きな魚を用いて、荒れ狂う海からヨナを救い出すのです。ヨナは、背いた自分さえも見放さない神に、感謝の歌を歌います。そして、3日後にヨナは陸地に吐き出されます。(この救いの出来事を、キリストの死と復活の予型です。マタイ12:38~40)

 

<ニネベの救い:~悪は悪として、人は宝として~>

ヨナはニネベに行き彼らの誤りを告げます。何でもいいよ、そのままでいいよ、ではない。悪は悪と告げるのです。するとニネベの人々は悔い改め、神の憐みを求めます。そして、神もニネベを赦しました。ニネベの人も神にとっての宝なのです。旧約聖書における「放蕩息子」(ルカ15章)のような赦しの出来事です。ネベの人々も神に向く(悔い改めギメタノイアの原意は方向転換)のです。

 

<ヨナの再びの背き>

しかしめでたしめでたし、では終わりません。放蕩息子の兄が、喜ばず、逆に怒り出すのです。

ヨナは「非常に不愉快」(4:1)になり、「怒って」(4:1)、ニネベの人のような悪人が生きるなら死んだほうがましだ、私よりニネベを取るんですね、私はどうでもいいんですね?それなら私を殺してください。

ヨナは神を信じた町を出て東へ行きます。アダムとエバが「エデン」を出て、東に住んだように、東は神から離れた場所を意味します。

弟息子が生きて帰った祝宴に加わらなかった兄息子(ルカ15章)に似ていますね。そんな家には入らない。そんな世界に住みたくない。そんな父は認めない、そんな神の国ならいらない。

そして、ニネベの失敗を、神がニネベに罰を与えるのを期待して待つのです。今やヨナこそが、神から遠く離れてしまいました。

 

<神の願いはあなたの心>

神様はヨナにご自身の憐みの心を伝え続けました。放蕩息子の父は、兄息子を喜びの祝宴に招き続けました。ヨナ書は3章で終わっていいのです。目的はすでに果たした。でも、神様にとって、ヨナはただの駒や道具ではない。ヨナには私の心が分かって欲しい。愛するよなに私と同じ憐みの心を持ってほしい。ヨナの心をこそ求めていたのです。

神様は私達の宗教行為にだけ関心がある方ではありません。普段の思い、言葉、ふるまい、すべてに関心を注いでいるのです。私達の心がいつも気になるのです。

 

<怒りだけではなく、憐みを>

ヨナは怒りました。その怒りは当然です。そして、神もニネベの悪を決して放ってはおけなかった。

しかしヨナは1つの心。敵意(怒り)だけでした。1つの見方、敵としてだけでした。

しかし、神様は怒りを持ちつつも、同時にもう一つの心、憐みをもってニネベを見られました。

背くものだけでなく、愛すべきものとして見ておられました。

 

キリストの弟ユダが記したユダの手紙にはこんな箇所があります。

「1:22 ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。1:23 ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえ忌み嫌い、神を恐れつつあわれみなさい。」

罪は罪です。悪は悪です。しかし人は、神の宝であり、神の憐みを受ける人です。私達はいつもこの神の憐みの心を忘れたくないのです。

 

<あなたに本当の意味での敵はいない>

私達は単純に相手を敵として見ます。そして、私か相手か、神にどちらかを選ぶように、どちらか正しいのかを決めるように、迫ります。

イスラエルかアッシリアか、ユダヤ人かサマリヤ人か、キリスト教徒かイスラム教徒か、私の国か隣の国か、私の肌の色か違う肌の色か、この教会かあの教会か、私のグループか別のグループか、私かあの人か・・・ きっとどちらかのほうがより神様に近いのでしょう。どちらかのほうがより正しく神の心にかなっているのでしょう。

しかし、神様はその問いには、どちらかとは答えません。ただ、私たちへのキリストを十字架に送られました。キリストは十字架につかれ私達のためでなく、私達が敵と考える相手のためにも、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。

相手は悪魔ではなく、人間です、敵対すべき存在でなく、祝福を祈るべき存在です。そもそも神が敵意が置かれたのは、蛇(悪魔・罪)と人との間であり(「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。」創世記3:15)、人と人との間ではないのです。

ある牧師が言っていました。「キリストを本当に知ったなら、敵は敵でなくなる。」相手へのあなたへの態度は変わらないかもしれない、しかし、あなたは相手を敵と見なくなる。愛と憐みをもって接するべき存在となる。神様は、ニネベの事も、ヨナの事も、そのように見てくださったのです。

 

<今週の黙想>あなたにとってのニネベのために祈る時間をもってみてください。

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