1月11日のメッセージ
2026年1月11日「キリストの福音⑤」マルコの福音書2章
1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。
<罪人とされた人、何もできない人>
今日の福音、良い知らせは、中風の人が癒やされる場面です。中風は、体の麻痺を意味し、パラリンピックの語源でもあります。たくさんの奇跡が起こる中で、なぜ中風の人の癒やしの出来事が記されているのでしょうか?もちろん屋根を壊したというインパクトはありますが、マタイの福音書では屋根の出来事は全て、省略されています。
「病は気から」、といいますが、当時、「病は罪から」、とされました。病になること、障害を持つこと、加えて、貧しさや不幸は、罪深さゆえの、神の罰だと理解されました。人々は、正しくないと、罪があると神に拒まれる、神から祝福ではなく罰を受ける、と敏感で、戒律を守ることが重視され、神殿で罪を贖う(帳消しにする)生贄を捧げました。加えて、善行を行うことで、罪人とされた人を避けることで、神の好意を得ようと務めました。
その意味で、中風の人は、悲劇的な状況に加え、「罪人」見下され、避けられ、宗教社会の常識がもたらす2次被害にも苦しんでいたのです。さらに体が動かないため、自分では神と人に対し全く何もすることもできない、望みのない状況だった。その人が、何もできない、何も差し出せないまま、癒やしを体験する、ここがポイントなのです。
<私達の信仰(ピスティス)、イエスの誠実(ピスティス)>
ある時、中風の人のところへ、イエス人々を癒やしていると噂が届きます。今まで相手にされなかった立場の弱い人も、誰も癒せないと言われた病の人も、癒やされたと聞く。人々は、彼をイエスのもとに連れて行きます。ところが、家は外まで人でいっぱい。そこで人々は、外階段から屋根に登り、屋根をはがして、イエスのところに中風の人を吊り降ろします。
順番割り込み?、屋根の修理はどうなる?、など、いろいろ言えばきりがないですが、大切なのは、「イエスは彼らの信仰を見て」(5節)、と言われていることです。
病が重くても、罪ゆえの罰だと見下されていても、彼を見捨てずに、イエスならこの人をなんとかしてくれるかもしれない、そんな思いから出た行為を、イエスは信仰と受け止めたのです。
この人々は単に屋根を破ったのではないのです。「屋根」は「覆い」、という意味の言葉なのですが、苦しむ人から神の恵みを覆い隠していたその覆い、当時の宗教的な常識、を破ったのです。
そして、イエスはその思いに応え、当時の常識の中では、神に拒まれた者、神から遠い者、とされた中風の人、何もできず、何も差し出せない人を、受け入れ癒やしたのです。
本日の招詞「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)
このイエス言葉は、寛容や多様性が尊重される今日にあっては、狭い考えのようにも聞こえます。けれども、逆に言えば、イエスによれば、誰でも、どんな人でも神と出会える、救われることを意味するのです。
「鰯の頭も信心から」という言葉にあるように、私達は個人の信仰、自分がどう信じるか、自分がどれだけ信じるか、を大切にします。それは素晴らしい。
ところが、「彼らの信仰を見て」、とあります。中風の人もイエスに期待していたでしょうが、主体はあくまで、彼ら、屋根を壊してまで、この人を連れてきた人々です。
さらに言えば、その彼らも、深く信じていた、正しく理解していた、とは一言も書いていない。ただもしかしたらと、期待して、無茶苦茶をした。けれど、イエスは、彼らを見て、それを進行と受け止め、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦されました。」、癒やしてくださった
信仰に求められるのは、私達が思うように、どう信じたか、どれだけ信じたか、ではない。誰を信じたか、なのです。
聖書に多く出てくる、「キリストへの信仰」は、私達の側に主体があるように見えますが、原語を見ると、「キリストの真実、キリストの誠実」、のようにキリスト側が主体とも読めます。
ローマ3:21〜23はマルチン・ルターが小さな聖書と読んだ有名な箇所です。
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯した(神から離れている)ので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる(神に受け入れられる)のです。」
この「イエス・キリストを信じる信仰」の部分が、新しい翻訳では、大幅に改定されました。新改訳2017では「別訳:イエス・キリストの真実によって」と補足がつけられています。日本で最もポピュラーな協会共同訳では本文自体「イエス・キリストの真実を通して」と直されました。
私達は不完全な自分や人を見て、分かっていない、信じていない、落ち込んだり、裁いたりします。逆に、〇〇牧師や教会の言う事を守っているから自分の信仰は立派だ、と勘違いします。
けれど、私達がどう理解するか、どれだけ熱心か、それは、私達が誰に信頼しているかに比べれば、それほど大切でない。わたしたちは、自分の信仰ではなく、キリストの真実、良い方の誠実さによって救われるのです。
キリストは中風の人に語りかけます。「子よ。あなたの罪は赦されました。」
子よ。と呼びかける。あなたは罪人ではないのだ、あなたは神の子だという。
これは、あなたの過去の罪過を免除してあげよう、ではない。罪とは行為でも、戒律を守れないことでもありません。的外れ、方向違いを意味する言葉であり、私達の状態です。神から離れ、神に背を向け、背いている、私達のあり方です。全ての人が患う病とも理解されます。
「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」イザヤ書59章1〜3節(共同訳)
罪を犯して罪人になるのではなく、神から離れているから、罪という病を患う罪人だから、罪の行為もしてしまう。
ですから、当時の文脈で見ればこの語りかけは、あたなの罪という病は解決された、あなたは神に受け入れられている、神とあなたを隔てるものはなにもないのだ、という、この中風の人の心と魂まで癒やす語りかけです。 神の前に何もできない者が、何も差し出せない者が、イエスにより一方的に受け入れられる、神の恩寵を受ける、天の御国に入れられる、これが福音なのです。
以前の私は、宗教家のように、こうでなければ神の目に正しくない、こうしなければ祝福されない、と自分にも人にも緊張をしいる面がありました。自分に主体があったのです。
しかし次第に、キリストが善い方であることを知り、キリストに主体が移っていきました。キリストが良くしてくださるという安心感を土台にして、生きるようになりました。
自分自身が神を深く理解すること、神を熱心に信じること、神と人のため何かをすることは、もちろん大切。けれど、もっと大切なのは、私がどうするかではなく、キリストがどうしてくださるか、なのです。「子よ。あなたの罪は赦されました」ど語られるように、私達を神の愛から隔てるものは、すでにキリストが十字架で取り払いました。誠実なキリストのおかげで、あなたは神にすでに受け入れられ、愛されています。救われています。安心して毎日を歩んでください。
私達もまた、罪という病にかかっている。体は動いても、心は、魂は、善に対して、神に対して、麻痺し、動かない。ですから、互いを必要とします。 不十分でも、失敗があっても、皆で助け合い、恵み深いイエスの前に出続ける、おざく台教会でありたいと思います。

