1月4日のメッセージ

2026年1月4日「キリストの福音④」マルコの福音書1章

1:40 さて、ひとりのツァラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」 1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」 1:42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。                           

IMG_20250112_081327733_AE

<やり方より、あり方>

 みなさんは、今年の目標を立てましたか?教会は、2026年に必ずこれをする、この数値を達成する、という目標は立てていません。この教会では、何をするか以上に、どうあるか、を大切にしています。今日の聖書箇所のキリストの姿を目指す教会でありたいのです。

 

<宗教の物差し、キリストの物差し>

 ツァラァトは皮膚の病気です。たかが皮膚病と思うかもしれませんが、当時の宗教的な社会では致命的でした。皮膚病であるツァラトは、伝染性であったため、社会的隔離の対象でした。彼に人に触れることは出来ません。人と一緒に住むこともできないのです。「患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。(レビ記13章45~46節)

 

 加えて、当時は、宗教的な「きよさ」、という物差しで人間の価値が測られていました。律法と呼ばれる宗教的な決まり事を守れることが「きよさ」であり、それが可能な人が、尊敬され、もてはやされました。一方、守れない人は、汚れた者、罪人、として見下されていました。

 病になること、障害を持つこと、貧しさや問題を抱えることは、神に従わないために、なにか罪深いことをしたゆえの、神からの呪い、神からの罰だと理解れ、汚れた存在として見下されました。(まるでカルト宗教の論理です)。当時の人は、病や貧困、不幸の中で、悩み苦しんでいるのに、寄り添われるどころか、人々から遠ざけられ、罪深い、汚れていると好き勝手に言われた。この人は、身体だけでなく、心も、魂もボロボロに傷つけられていたのです。

 

 今日の日本社会には「きよさ」という物差しはありません。しかし、別の物差しで図られることは多いかと思います。社会的な地位や収入であったり、貢献度、容姿、能力、人種、国籍、様々な物差しがあります。それらが十分でなければ、汚れや罪人とは、呼ばれなくても、見下されたり、疎外されたり、人として尊重されなかったりします。けれどキリストの物差しは違うのです。

 

 ある日この人はイエスの話を耳にします。当時立場の弱かった女性も、病が癒やされたと聞きました。(旧約聖書で、女性が癒やされた場面などすぐには思い当たりません)。そこで、もしかしたら、罪人とされる自分のことも、助けてくれるかもしれないと、会いに行くのです。

 

1:40 さて、ひとりのツァラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 求める人は多かったですが、ひざまずいて、という人はわずかです。彼の真剣さが伝わってきます。また、イエスにツァラアトを治してほしいと言うのは特別な意味でした。当時の宗教家(ラビ)達は「メシア(救い主)が来て癒すのでなければ、ユダヤ人のツァラアト患者が癒されることはあり得ない」と教えていたからです。この人の40節の言葉は直訳すると、『もしあなたが望むなら、あなたはわたしをきよくすることができます。』となります。あなたはそれができる人です。あなたは、神からの救い主、メシアです。そんな意味が込められた、立派な信仰告白でした。けれど、この真剣さや、敬虔さによって、救われたわけではないのです。

 

イエスは求めてきた彼に応えます。1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

 

イエスは、深く憐れみ手を伸ばした、のです。彼の姿に感心し、でも、彼の言葉に満足し、でもない。彼の示したへりくだった態度や立派な告白を根拠にご褒美として、救いの手を伸ばしたのではなく、彼への憐れみを根拠に彼に手を伸ばしたのです。イエスの物差しは、宗教家たちのような「きよさ」の物差しでも、私たちの考えるような敬虔さや信仰深さのものさしでもなく、神の憐れみの物差しでした。

 

「深くあわれみ」(スプランクニゾマイ)は、高く安全なところから何かを放り投げるような意味ではありません。これは、神にのみ使われる、表現で、感情が宿るとされていた内臓がねじ切れるほどの痛みを伴う憐れみ、を表します。この人を見て、今までの悲しみや傷を見て、イエスの心も痛み苦しみ、放っておけなかったのです。 

 

 しかもただ手を伸ばすだけではない。彼に触れたのです。1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

多くの宗教家や祭司は、病人・障害者・正しく歩めない人を避け、離れ、切り捨てることで、自らのきよさを保とうとしました。(パリサイ派とは、「分離派」という意味です)当時の物差しでは、汚れをさけることが、汚れた人を分離することが、きよさ、正しさ、立派さだった。

けれど、イエスは、教会は、違うのです。「手を伸ばして、彼にさわって言われた。」

宗教的にも、衛生的にも、彼に決して触れてはいけないのです。しかし、イエスはその人に手を伸ばし、その患部に触れる方。触れることで、神がその人を拒んでおられないこと、その人を愛しておられることを、徹底的に示しました。また、当時の意味においては、その汚れを引き受けること。同じ、悲しみや苦しみを負うこと、彼と同じような存在になる、ことを意味するのです。

 

 当時の理解では、彼に触れると、イエスも宗教的に汚れます。けれど気にしません。イエスは人を汚し、苦しめ、神から引き離すのは、外側の病や問題ではなく私達の内側の罪なだと教えます。7:15 外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。・・・7:20  人から出るもの、これが、人を汚すのです。 7:21  内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 7:22  姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』(マルコの福音書)

 「お心一つで、私をきよくしていただけます。」とキリストの前にひざまずきべきだったのは、外側に皮膚病を患った人ではなく、内側に罪という病を患った当時の人々や宗教家だったのです。

 

<キリストの前に出続ける教会>

 私達は、ツァラトという病はありません。けれど、多くの問題を持ちます。それらは決して、神からの呪でも、罰でもないのです。幸不幸の多寡で、神の愛や自分の信仰状態を計らないよう、改めて確認したいのです。

 そして、外側の問題だけでなく、内側の罪の問題にも目を向け、まず私達が、「お心一つで、私をきよくしていただけます。」とキリストの前にひざまずく、私達でありたいのです。

 

この人に倣えるのは、この人の謙遜や告白の正しさでなく、イエスにお願いをした、イエスにかけた、という点です。40節を直訳すると「皮膚病患者が彼(イエス)のところに来て、彼にお願いし、ひざまずいて、彼に言った。」彼に、彼に、彼に、と繰り返されている。彼に、イエスに、キリストに、これがカギでした。信仰とは、大小ではなく、対象が大切です。大切なのは、自分がきよいことでも、敬虔なことでもありません。憐れみ深い方に、頼るかどうかです。ただそれだけで、恵みを受けます。神の子とされます。罪がゆるされます。天国に入れられます。


立派な自分を偽らなくてよいのです。憐れみ深い方の前に出て、その方の心に信頼すればいいのです。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、私達の汚れに触れ、言ってくださいます。「わたしの心だ。きよくなれ。」自分自身を、そして、隣の人を、イエスの憐れみの心で見ることができる、そのような教会も目指していきたいと願います。

Top