12月7日のメッセージ

2025年12月7日「クリスマスの福音②」マタイの福音書

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1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。    

<ファミリータイム>

  イエス様のお母さんは、誰でしょう?・・マリアさんです。

では、イエス様のお父さんとして生きたのは?・・・ヨセフさんです。

では、ヨセフさんは、何をした人でしょうか? 

 クリスマスのお話といえば、マリアさんが主人公です。セリフもたくさん出てきます。一方で、夫のヨセフは、一言も聖書にセリフがないのです。早くに亡くなったようで、すぐに聖書にも出てこなくなる、目立たない人です。でもクリスマスがあるのも、教会があるのも、ヨセフさんのおかげなのです。

 

<信仰とは、生き方>

 信仰とは何でしょうか?神を認めること、聖書に同意すること?それらも大切。けれど、信じて終わりではない、信仰が、生き方に表されるのです。では、宗教的なことをすること?ヨセフは一言も台詞がありません。宗教的な行為をしているわけでもない、けれどその生き方によって、言葉以上に雄弁に、その信仰を表す人でした。

 

今日の場面で、ヨセフは悩んでいました。結婚する予定の許婚のマリアが妊娠したと聞いたのです。当時の文化や宗教においては、罪深い、死罪に当たる出来事でした。ヨセフは悲しみながらも、マリアを思いやり、彼女の身を守るため、婚約破棄を決意します。

 

そんなヨセフに、夢の中で天使が表れ(1章20節)、マリアのお腹の中の子が、神からのものだと告げます。そして、お腹の中の子の2つの名を告げます。1つ目はイエス、2つ目はインマヌエルです。イエスとは、ヘブライ語で「主(神)は救う」という意味です。お腹の中の、赤ちゃんは神が差し出した救いの手だと言うのです。

そして、2つ目、インマヌエルとは、「神が共にいる」、という意味です。

 

救いと聞くと、悪い環境から助け出され、外側の状況がより良く変えられる、などのイメージがあります。ヨセフさんにとってもはマリアの妊娠の問題が無事に解決したら、救いだったかもしれません。けれど、神のお告げは、神から差し出された救いの赤子は、ヨセフにとっては誰からも理解されない、社会的、宗教的に村八分になる、茨の道でした。

実際、最初のクリスマスには、自分の故郷のすべての家から汚れた者たちだと、拒絶され、馬小屋で出産する羽目になりました。

マリアを捨てればヨセフは安泰でした。けれど、ヨセフは神を信じました。そして、マリアを受け入れ、どんな誹謗中傷にも甘んじても、マリアとともに生きる決断をしました。

 

天使はその後もヨセフを訪れます。夢の中で告げて、400キロ以上離れたエジプトに亡命させ(2章13節)、しばらくして再びパレスチナに帰るように告げます(2章19節)。そのたびにヨセフは従うのです。自分の都合もあったでしょう。けれど、マリアに寄り添い、支え続けるのです。(なんと素敵な伴侶でしょうか!)

 

 ヨセフにとって神を信じるとは、宗教知識を積み重ねることでも、宗教行為に熱心であることでもありませんでした。むしろ、当時の宗教に反してまで、どれだけ泥をかぶっても、マリアを信じること、マリアと共に生きることだったのです。マリアにとって、自分を見捨てず、自分を信じ、隣を歩み続けてくれるヨセフの存在は、まさに天からの救いでした。

 

 神を信じるとは、ただ、宗教に同意するとか、宗教行為に熱心である、ということでは宗教的なことだけでは測れないのです。神を信じることは、神に従うこととは、誰かを信じ、誰かに寄り添い、一緒に苦しみ、その人と共に歩むことでもあるのです。

 

<キリストがしてくれていること>

 見捨てられた人を見捨てず、信じぬき、自分が泥をかぶっても、共にいて寄り添い続ける。このヨセフの姿、どこかで思い当たりませんか?これこそが、キリストの姿です。

 

 キリストは、社会的に、宗教的に、罪深く汚れている、とされた人に寄り添いました。そのせいで沢山の批判を受け、拒絶されました。それでも、人々を信じ、ともにいて、導き続けました。自分を注ぎだし、分け与え続けました。

 ヨセフがマリアにしたこと、それは、キリストが私達にしてくれていることなのです。だからヨセフの歩みは尊いのです。

 

 私達は、誰かにとってのヨセフになるようにと期待されています。あなたの存在が、誰かの救いとなるようにと、命じられています。そんな時は、あなたに寄り添い、あなたの救いとなってくださるキリストを思い出してください。クリスマスツリーに飾るオーナメントの赤と白の杖は、羊飼いを、キリストを象徴しています。

詩篇23篇

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

ヨセフは、マリアとともにいたために、拒絶や、危険や、困窮など、たくさんの苦しみに遭います。報われない、救われない、傍から見たらそう見えます。

 けれどちゃんと報われていた、ちゃんと救われていた。聖書で言う救いとは、状況の荒天ではない、神がどんなときも共にいてくれる状態を指すのです。だから、マリアとともにいる力がいつも注がれていた。そして、ヨセフの選択がマリアだけでなく、多くの人を、そして私達を救うことになった。神が共にあるから、救われているから、その結果として私達は他の人にとっての祝福とも、救いともなれるのです。

 

 神はクリスマスに人となってわたし達のところに来た。そのキリストは誓います。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28章20節「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」ヘブル人への手紙13章5節


<今週の黙想> 朝毎に詩篇23篇を読み、毎日をスタートしてみてください。

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