3月10日のメッセージ

おざく台キリスト教会2024年3月10日『キリストと出会う33』ヨハネ19

 

IMG_20240310_072343

25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロバの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
27 それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 

 

 

愛するチャレンジ

 ースターも近づいてきました。今回から3回は、ヨハネの福音書に記されているイエス・キリストの十字架の上での3つの言葉からお話します。 

 イエスは十字架の上で、母マリアと弟子のヨハネとを見つめます。そして、母にヨハネを示して、『そこにあなたの、息子がいます。』と告げ、ヨハネに母を示して、『そこに、あなたの母がいます。』と告げました。その日から、ヨハネはマリアを自分の家に引き取ります。 そして、ヨハネは晩年はエペソ教会(現在のトルコのエフェソス)の牧師となるのですが、イエスの母マリアもエペソへと連れてゆき面倒を見たとされています。

 イエスには、後に使徒として教会を率いるヤコブや、ユダなど、弟たちもいました。それなのになぜヨハネなのか?(聖書の他の箇所によれば、ヨハネの親族は漁業の元締めとして裕福で、大祭司とも接点があるなど社会的影響力もあり、弟子たちの中では余裕があったから、など様々に推測されています

 

 一つ確かに言えることは、この十字架からの語りかけは、血の繋がりを越えて、誰かの隣人となる、という初期のキリスト教の大切な教えを表しています。

 キリストは十字架にかかる前の夜、『わたしがあなたがたを愛したように・・あなたがたも互いに愛し合いなさい。(17:34)と告げました。神が立場を超えて、人寄り添い、愛したように、私達も、様々な違いを越えて、人を受け入れ、尊び、愛するのです。

 実際に初代の教会は、社会福祉などがほとんどない時代において、身寄りのない人、乏しさの中にある人、そういった人を受け入れ、支えました。夫に先立たれ生活に困窮する人がいれば『そこにあなたの母がいます。』というキリストの言葉を受け、生活を支えました。身寄りのない子供がいれば、『そこにあなたの息子がいます。』というキリストの言葉に従い、こども達を受け入れました。

 の姿が、人々の信頼を得て、ローマ帝国内で、キリスト教が広まりました。

 

 もちろん、時代状況が違います。私達はキリストではないので、持てる力には限界があります。けれど、十字架のキリストは誰かの友や、父や母や子となるように、そこにあなたのがいます。』と、私たちに呼びかけるのです。

 

 

<愛されるチャレンジ

 これは同時にマリアに言われた言葉でもあるのです。当時としては高齢で、(おそらく)夫ヨセフにはすでに先立たれていたマリアは誰かの厄介にならねばならない存在でした。(十字架の後、迫害の時期にはなおさらです。)『そこにあなたの息子がいます。』これはマリアにとっては、誰かに隣人となってもらう誰かに頼る、誰かから愛を受ける、というチャレンジでもありました

 エリザベス・キューブラ―ロスという有名な精神科医がいます。喪失の受容についての5つの段階(否認・怒り・取引・抑うつ・受容)を説いた人で、彼女の示したモデルは、臨床の場面で、災害後のケアの際に、多くの人の支えとなっています

 しかし、彼女のドキュメンタリーを見ていて、印象的な場面がありました彼女自身が、突然の病によって、他者の世話なしには生きられなくなり、誰かに頼ることでしか生きられない自分に葛藤やいらだちを覚えるのです。(強く生きた彼女だからこそかもしれません)

 誰かに隣人になってもらう、誰かの愛をただ受け取る、ある人にとっては大きなチャレンジです。(きっと頑張り屋さんが多いおざく台のみなさんにとって)自分や自分の家族必要を、弱さを、課題を、抱えた人間です、と表すことでもあるからです。

 けれど、誰かに隣人となってもらう、これは誰かの隣人となること以上に、キリストが願う教会であるために、互いに愛し合うために、とても大切なことだと思うのです

 私が以前にいた教会は、正し立派であろうとした教会でした。それは素晴らしいことです。けれど、現実はなかなかそうは行かない。それなのに、問題を隠したり、隠せなかった人を裁いたり・・・・それによって教会は形骸化し、雰囲気は悪くなり、人は疲れ、去り、活気を失っていきました。

 けれど、落ちるところまで落ちて、自分たちは生活でも、信仰でも、問題があるのだと実感しました。次第に、裁く心が減り(自分も問題があるので他者を裁けないのです!)問題を恥じるのではなく、当たり前なのだと理解し、他の人にも『祈りが足りない、信仰が足りない!』とは言わず、それは大変ね!と一緒に泣いてくれる雰囲気になりました。

 今でも印象的な場面があります。若者たちが、あるゲームで遊んでいました。Ungameといって、ただ、カード書かれた質問に答え、他の人は聞くという、交流型のゲームです。

 そこに、正しさの塊のような長老が、顔を出し、参加したのです。(ちょっと嫌でした。正直なことを言ったら、裁かれないか心配でした。)

 長老の番になり、カードをめくると、『あなたはどんな時に悲しいですか?』という質問でした。(私は、『どうせ、キリスト教的に立派なことを言でしょ?』と斜に構えて聞いていました。) すると長老は、『わたしは息子が私と話してくれない時に、悲しいです。関わり方が悪かったのでしょう、わたしが間違っていたのだと思います。少しでもまともに関われる関係になりたいのです。』と話してくれました。長老自らが、弱さを必要を表し、祈りを求めたのです。みな、言葉を失いました。

 教会にとって大きな転換点だったと思います。ちょうどその時期から、教会がどんどん暖かくなり、問題があっても裁かれるのではなく一緒に泣いてもらえる、ようになっていきま

した。弱さも、悲しみも、問題も、隠さなくていい、表しても、寄り添われ、いのられ、支えられる、そんな教会になっていきました。

 そして、課題や弱さを抱えていても、神と人に支えられ、誠実に生きようとする、その姿が多くの人を励まし、心を打ちました。

  『そこにあなたの息子がいます。』というのは、あなたの必要を表しなさい、誰かに頼ること、隣人となってもらうことを学びなさい、という大きなチャレンジです。教会が本当の教会であるために、欠かせないのです。

 『そこにあなたの母がいます。』『そこにあなたの息子がいます。』この十字架の語りかけを聞きながら、人を愛し、人の愛を受けて、歩む一週間となりますように。

Top