毎日の聖書3月4日〜

.おざく台教会毎日の聖書 日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

日(月)マルコの福音11章  

24節「祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 祈りとは、ただの願望ではなく、天地万物を造った神様への求めです。どんな自分勝手で的はずれな祈りでもよいのです。祈りの中で、私達は神の取り扱いを受け、私達自身も変えられていくからです。大切なのは、祈ること、祈り神との交わりに生きることです。私達の願いや願望は、そのきっかけとなります。あなたが諦めていたことを、もう一度祈り求め始めてみてください。

日(火)マルコの福音12

31節「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 旧約聖書の時代、ユダヤ教の時代、隣人とは主に、民族的な同胞、信仰共同体の仲間を指しました。(新約聖書の時代は、キリストがその枠を大きく広げたのです。)たとえ、神の民同士でも気が合う人・合わない人、好きな人・嫌いな人、がいるでしょう。あなたの苦手な信仰者を思い浮かべ、その人を愛するために何ができるか祈り求めてみてください。そして、少しでもその人に神の愛を表現してみてください。

 

日(水)マルコの福音13

37節「目を覚ましていなさい」

 全てを宗教的なことに結びつけ、地に足がつかない生活を送るのは行き過ぎです。一方で宗教改革者ルターは「キリストが昨日十字架にかかり、今日復活し、明日再び来られるかのように生活しなさい。」と教えました。イエス様が再び来てくださる、その溢れる期待と良い緊張をもって、今日を過ごしてみてください。

日(木)マルコの福音14

36節「どうぞこの坏をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってっください。

 全能の神が、愛する御子を見捨て、十字架へと送る。この不可解な出来事こそが、私たちの救いとなりました。私達もまた、理解に苦しむ状況の中であっても、背後に神の良いみこころが必ずあるのだと、今の苦難もやがて益とされる(ローマ8:28)のだと信じたいのです。

 

日(金)マルコの福音15

34節「イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。

 ある神学者は「キリストへのNoは世界へのYesである。」と述べました。キリストの十字架は、神様あなたを拒むことも、見捨てることもないという証ですその安心に支えられて、毎日を歩みだしてください。

 

日(土)マルコの福音16

節「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。

 私達の信じるイエス・キリストは、十字架で死なれた方であり、墓から、死から蘇られた方でもあります。失望や諦めの中にとどまる女性たちに、天使は言うのです。『ここにはおられません。』と。そして、ガリラヤを示し『そこでお会いできます。』というのです。復活のイエスはすでに新しい場所に歩みだしておられたのです。

 私達の歩みの中で、失望や諦めの中にとどまっていることはありませんか。もしかしたら、底から離れ新しく踏み出したときにこそ、より、イエスに出会うことができるのかもしれません。

10日(日)ルカの福音

38節「どうぞ、おことばどおりこの身になりますように

 私達はロボットとしては創られませんでした。自由意志が与えられ、神の言葉が委ねられているのです。マリアのように受け止めることも出来ますし、聞き流したり、無視したり、拒むことも出来ます。

 私達はどのように応えましょうか?どの神の語りかけに、『どうぞ、おことばどおりこの身になりますように。』と言いましょうか?

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