1月14日のメッセージ

おざく台キリスト教会居場所は、ここに。」エペソ2:1−10 井本香織神学生

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1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―
6 キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

居場所のちから

 先生、教会で話してくれて大丈夫ですよ、と言ってくれた生徒の話です。彼は、教室に入れなくなったのですが、歌とギターが好きで、聖書科の先生(牧師でもあって、その先生も若い時に不登校だったそうです。)と昼休みに練習するところが、彼の居場所になりました。1年以上そんな時間を過ごし、段々に教室に行けるようになり、文化祭で歌を堂々と披露してみんなを驚かせてくれました。私たちも、学校、職場、地域、家庭、教会、自分が受け入れられている居場所があるということはどんなに大事なことかと教えられた思いでした

 

1、昔も今も、みんなが居場所を探している

 エペソ人への手紙は、エペソの教会の人たちに宛てて書かれた手紙です。エペソは、商業的にも政治的にも華やかな街でした。アルテミス神殿にローマ帝国中から皆がお参りに来るのを楽しみにしていました。神殿娼婦と性的な関係を結ぶことも盛んに行われていました。美味しいもの、楽しいイベントがたくさんあって、今日の東京にも重ねることができるような街でした。豊かな街で、時には欲望を求めながらも昔の人たちも、私たちを愛してくれている神さまのことは知らずに、代わりに私たちを誘惑するもの「空中の権威を持つ支配者」声をしょっちゅう聞いていました。の私たちも同じような声を聞いていると思います

 たとえば「神様なんて頼りにならないよ。こんなところに、自分の心を、魂を、満たしてくれるものは何もないよ。人と分かち合う人生ではなく、自分のためだけに生きたらどう。自分が楽しければ、それでいいではないか。弱みを見せるな、つけ込まれるよ!何も生み出さないのなら、誰からも相手にされなくなるよ!死んだら終わりだよ、生きているときのことだけを考えろ。」

 

 この声に聞き従って歩もうとするとき、「あなたは私の愛する子だ。」の声はかき消され、私たちは、この世界の価値観にとらわれてしまっているのです。神様の価値観に従うことができなくなります。故郷、安心できるところから迷い出て、自分の欲のままに生きるような状態を、今日の私たちも歩んでいたのです。

 神様から見たら「愛する子よ、どこに行っちゃったの!?」迷子、行方不明、もしくは、もう遠く離れすぎて、死んでしまったかのようなものだったのです。

(私は、18歳で東京に出て来たのですが、目標を見失い、自分が何のために生きているのかを求め、自分の居場所を求めて苦手な飲み会にたくさん行ったりしていました。けれども20才の頃、学生生活に行き詰まって「神様、私はあなたを信じてはいましたが、心の隅っこにあなたを追いやっていました。私の心の真ん中

お入りください。あなたの望むようなものに私を変えてください。」こんなふうに真剣にり終えたとき、あらためて喜びがわいて来ました。イエス様のとなりで生きるというプレゼントを、あらためて受け取り直させていただいのです

2、イエス様のとなり」という居場所

 私たちは罪の中に死んだようなものでした。でもそんな私たちのことを神様は見捨てずに、いのちを与えてくれました。このいのちとは、いつか寿命が尽きてなくなってしまうのもではなく、神様と一緒に生きる永遠の命です。この命には、安心感、自分の生きる意味、自分の価値、無条件で愛され受け入れられていることの満たしがあります。私たちに、どんな時にも失われることのない、プレゼント差し出されているのです。それは「いつも、イエス様のとなりにいる。」という居場所のプレゼントです。4ー6節しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―
キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」


 この社会においては、能力が基準に満たなかったら、年を重ねたら、災害が起こったら、大事な人を見送ってしまったら、自分が死を迎えたら・・・。失われてしまう居場所があるでしょう。それを失ったら、どうしよう、と恐れることもあるでしょう(私は、あります。)

でも、どんな時も、イエス様が私たちを隣りらせてくださっているのです「子よ、戻っておいで。私のとなりに。」と語られています。ピンチの時も、苦手な人の前でも、寂しい時も、嬉しい時も。やがて死を迎える時も。それは、あまりにも豊かすぎて、私たちがいただくには、不釣り合いな贈り物でした。でもこのプレゼント受け取った効果は、絶大で、受け取った人の人生を変えてしまうほどのものなのです。

3、わたしたちも、お互いの居場所になり合えたら・・・

 エペソの教会の誕生に関わったパウロ(彼は独身でした。)は牢屋の中から、エペソの教会のみんなが「自分のために祈ってくれているだろうな。」と思うとき、パウロの居場所たった一人の狭くて暗い牢獄ではなく、イエス様と教会のみんなに囲まれているところでした。

 なぜローマ国の中で最初は嫌われていたキリスト教が、国中に広がっていったかを研究しているロドニー・スタックという先生は、初期の教会が、人々の温かい居場所になっていたことを、要因の一つとして挙げています。おざくの教会もあったかい雰囲気で安心して礼拝できる、神様を見上げられる、そんな場所だから、みんな集って来てくださっていますよね。教会で共に礼拝でこの素晴らしい神様を見上げ、時には喜びも困難も分かち合い、その話に、心の中で祈りながら黙ってうなずいておられるとき、お互いの居場所になり合っておられるのです。

 イエス様から、永遠に失われない居場所をいただいた私たちは、その静かな喜びをいつも味わいたいのです。大丈夫です、イエス様がとなりにいます。そして、続けて、お互いが互いの居場所になり合えたらと願うのです。皆さんのご家庭で、地域で、職場で、どこにいても、ちょっとした人との時間の中で、イエス様がそこにおられて、互いの居場所になり合う「良い行い」を神様が備えてくださっています。

今週の黙想 

イエス様あなたの隣にいることを思い浮かべた時、どんな表情で、なんと言ってくださっていますか。

 

・あなたは、誰の居場所になり合うようにと、招かれているでしょうか。思い浮かぶ人のために祈りましょう。

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