11月26日のメッセージ

2023年11月26日「洗礼の恵み」

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 27 そこで彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、 28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることがわかりますか」と言った。 31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。 32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。 33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」 34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」 35 ピリポは口を開き、この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。 36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」 38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

 

<昇天者記念礼拝の解説>

今日は◯◯さんの洗礼式です。そこで、洗礼の場面を選びました。洗礼を受けたのは、それまで宗教の中心であったユダヤ人ではなく、外国のエチオピア人(異邦人)という記念すべき出来事でした。

 

彼はアフリカの大国エチオピアの高官で「女王の財産全部を管理していた」(27節)とあるので、地位の高い輝かしい人物でした。けれど、光の面だけで彼を語ることは出来ません。人には影の面もあるのです。彼は宦官でもありました。宦官は、女王に仕えるため、去勢をしなくてはなりません。

自分で臨んだか、生まれつき決められていたかは分かりませんが、家庭や子供を持つという選択肢はありません。他の人と違う人生であること、肉体に傷と欠けがあること、それが彼の心に影を落とし、それゆえに悲しみと苦難の箇所に心が留まり、イザヤ53章を読んでいたとも考えられています。

 

それも手伝ってでしょうか、彼には、神を求める思いがあったようです。「礼拝のためにエルサレムに上り、いま帰る途中であった」(27〜28節)とあります。その距離は2500キロ。当時の国際社会において、何かしらの外交的な役目かもしれませんが、聖書まで読んでいたことから、たとえ仕事や役割であったとしても、彼には求める心があったようです。(旧約聖書には、外国人や、宦官など身体的欠けのあるものは、神の祝福の外にあると読める箇所もあるのにです。)そんな彼に、ピリポはタイミングよく運命的に、いえ、天の配剤によって出会うのです。

 

その時、彼の心の奥底を表すかのような印象的な箇所が開かれていました。イザヤ書53章、苦難の下僕、悲しみの人の箇所です。そこで描かれるのは、神と人に見捨てられたかとのような、あるイン物です。苦しめられ、嘲られ、誤解され、周囲の不幸を一身に背負ったような人物です。

『どうして私には苦しみがあるのか、どうして私の人生はままならないのか』、悩み、苦しみ、悲しんだ人たちに読まれてきた箇所です。当時のユダヤ人達も、他国からの支配の歴史の中で、自分たちをこの悲しみの人に自分たちの姿を見たように、この宦官もまた、悲しみの人に自分を重ねていたのかもしれません。

 

もちろん私たちもそのように自分を重ねて良いのです。悲しみがあれば、疑問があれば、何度でも髪に叫んで良いのです。けれど、この宦官の問いに、「ピリポは口を開き、この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」(35節)本当の意味で、苦しめられ、見捨てられ、嘲られ、全ての人の病も呪いも背負った悲しみの人とは、イエス・キリストだというのです。

 

『どうして私には苦しみがあるのか?』こう問うても良いのです。けれど、聖書は、もう一つの問いを私たちに示します。『どうしてこの人(キリスト)は苦しんだのか?』という問いです。

自分の悲しみを嘆いても良い、なぜですか?と神に問うても良いのです。けれど同時に、「なぜキリストは悲しみの人となり、苦しめられたのですか?」とも問いたいのです。

 

悲しみ、苦しみ、痛み、それらをエリオピアの宦官が深く知っていたからこそ、キリストが悲しみの人となられたことがどれだけ大きなことか、十字架にまでかかり、苦しまれたことが、どれだけ自分を想ってくれてのことなのか、彼はしっかりと受け止めることが出来たのかもしれません。

 

若松英輔さんの詩集『たましいの世話』の中に『なぐさめの真珠』という詩があります。

 

苦しみも 悲しみも 手放してはならない

人生という 貝殻が なぐさめの真珠を 宿すまで

 

どうか、苦しみ、悲しみ、悩み、疑い、苛立ち、それらを持つ自分を否定しないでください。

美しい真珠は、本来貝をにとって有害な異物をきっかけに生まれます。貝の中に入り込んだそれらは貝を傷つけ、殺すこともありますが、貝殻成分がそれを包み込んでいくことで、美しい真珠ともなりえるのです。

 

エチオピアの宦官は、自分の身に刻まれた傷を通して、人生への疑問を通して、神と出会っていきました。その傷や悲しみ自体は、喜ばしいものではなかったでしょう。けれど、その悲しみは、真珠貝に入った異物のように、神との出会いというかけがえのない出来事のきっかけとも、悲しみの人キリストとの絆ともなったのです。

 

言うまでもなく、悲しみなど無い方が良いのです。けれど、これだけは忘れないでください。私達の悲しみも、苦しみも、神との出会い、キリストとの絆という私達への『なぐさめの真珠』とも、他の悲しむ人への思いやりや慈しみという、隣人への慰めの真珠ともなりうるのです。

 

私達の悲しみが、私たちをただ傷つけ苦しめるか、それともやがて宝となっていくか、それは真珠成分が異物を包み込むように、私達の悲しみも、神の慈しみによって取り扱われるかどうかにあるのです。

『どうして私は苦しむのか』と悩んだ宦官は、もう一つの問いに出会いました。『どうしてキリストは苦しんだのか?』なぜ神が、救い主が、これほど悲しみ、苦しんだのか、この問いに向き合う中で、それは私のためであったと思い返す中で、私達は、神の憐れみや恵みに対して、魂が開かれ、悲しみが、苦しみが、取り扱われ、やがて、悲しみを知るものしか持ち得ない、『なぐさめの真珠』へと変えられていくのです。

 

私達はこの宦官のように、悲しみの人となってまで私たちを愛し共にいてくださる神をいよいよ知りたいのです。『3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。』(イザヤ書56章)

 

◯◯さんは、洗礼を受けて、しばらくすれば、羽村を離れなくてはなりません。教会にとっては、まるでこのピリポと宦官のような、一瞬の出会いです。けれど彼は『喜びながら(エチオピアに)帰っていった。』(39節)のです。ピリポと一緒にいられないのは残念ですが、神が共にいてくださるのです。

現在エチオピアには、エチオピア正教(東方正教の流れ)として、キリストを信じる方々がたくさんいます。神の祝福はいつもあるのです。

◯◯さんの歩みにも、私達の歩みにも、同じ恵みの神様が共にいてくださいます。どうぞ、『喜んで』、歩んでください。

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