11月19日のメッセージ
詩編第3編 「祈りによる歩み」 斎藤義信 信徒説教者
「祈りによる歩み」
詩編には表題に「ダビデ」と称する詩編が全体の半分近くあります。栄華を極めたダビデにとって相応しいようにも思いますが、しかし、彼の中に存在する罪のために自ら招く困難も数限りなくあり、神への賛歌であったり、祈りであったり多くの詩や歌で神をほめたたえ、またつぶやきのような祈りを見ることができます。
今朝、開いている詩篇は昔から「朝の祈りの詩篇」と言われています。5、6節に『私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が支えてくださるから 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない』眠りは私たちの体の機能を潤滑にさせるために欠かせないことです。
適度な睡眠時間は必要です。しかし、何か心に引っかかることや今日一日の反省を踏まえるとどうしても眠りにつくことが難しく心安らかに出来ないことも時々起こります。
この詩篇も「ダビデがその子アブサロムから逃れたとき」のとあります。我が子アブサロムがダビデを打とうとしていた。子が親を打つということは心穏やかではありません。ダビデには何人も子供がおりました。それは一人の母親からではなく、何人もの妻、側女と呼ばれる人たちから、もちろん聖書の時代のユダヤの国の話ですから、私たちとは全く感覚が違うわけです。でも少なからずそういう子供たちを抱えている問題というのは想像できるのではないかと思います。例えば、正妻と側女の子では扱いが違う、序列の違いが表され、差別のようなこともあったのでしょうか。
今日のテーマの直接的原因ではありませんが、アブサロムの実の妹が腹違いの兄によってレイプされるという事件、それを恨んでアブサロムは罠を仕組んでその兄に復讐するという痛ましい事件にダビデは嘆き悲しみ、怒りました。しかしⅡサムエル13章ではこの出来事に対してダビデは何もコメントしていません。親としての責任が曖昧のように思います。何よりも子供たち同士でそういう争いがあることが親として耐えられなかったのでしょう。私たちもそうではないでしょうか。親として兄弟が仲良くして欲しいのに子供同士でいがみ合い、絶縁しているような関係であるならば親としていたたまれないのです。ダビデもそうであったと思います。
そして今度はその我が子アブサロムがダビデを狙っている。もう老境の域にある彼には戦う力があったのか?それ以上に我が息子から狙われ、野心家であったアブサロムは周りからも急き立てられてチャンスとばかりに追い打ちをかけていったのではないでしょうか。
そしてダビデは我が子によるクーデターによってエルサレムから逃げ出さなければならなかった。Ⅱサムエル15/30「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、泣きながら登った」とあります。敵はもう目の前に迫っていたのかもしれない。詩編の3/1、2節に「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多いのです。多くの者が、私のたましいのことを言っています。『彼には神の救いがない』と」周りの諸外国の敵だけでなく身内の中からも敵なる者が現れた。
私たちの回りにもその敵に代わる諸問題が日夜生まれてきます。職場、学校、家庭の中であるいは具体的に突然やってくる病など…
私は働いているときに40代半ば過ぎでありましたが、急に動悸がしてきました。そして自分を客観的にみられなくなったことがあります。ちょうど単身赴任で淡路島に赴任して働いているときでした。業者や従業員間の軋轢というか、パニック状態になり病院に行ったらうつ状態だ、と言われてその後やむなく約半年くらい休職を余儀なくされました。今からその時のことを思えば、五里霧中で手探りの中、前ばかりを見ていた。開かれた天を仰ぎ見ることができなかった。『彼には神の救いはない』と」この言葉と対比するように「早く良くなって仕事に就きたい」そういう状態が続いて自分の内側ばかりを見つめて天を仰ぐことができませんでした。
そして詩編3篇3節に「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」試練や困難にぶち当たったときにある牧師先生は言っていました。「困難や問題に出会ったときに怒りや卑屈になるのではなくこのことを通して神は何を私にさせようとしておられるのか、客観的に見る目を養う事」さすがに難しいかもしれませんが、冷静になり、現実を直視する目が常に必要であると思います。
ヨハネ伝8章に姦淫の現場で捕らえられた女をイエス様の下に連れてきた群衆が、こういう女は「石打の刑」だ、というと主は罪のない人から石を投げなさい、と言われました、するとそこには誰もいなくなった、あります。絶体絶命の中でイエス様が言葉をもって、盾になってくださいます。私たちもそういう絶体絶命の中で主からの助けをいただくことが、時としてあるのではないでしょうか。
4節には「私は声を上げて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。」聖なる山は正にイエス様が新約の時代に私たちの罪のためにとりなしの祈りをし、十字架を前に血の汗を流されたあのオリーブ山のゲッセマネの祈りの山でした。古のまだ1000年以上前にダビデがまた泣きながらオリーブ山の坂を登っていたのでした。ダビデもイエス様も四面楚歌の中、イエス様は天の父なる神様に全てをお任せしたのに対してダビデは泣きながらオリーブ山を登った、神の子イエス様と人間ダビデの違いを見るのは、異母兄弟の殺害を見逃したり、その後にアブサロムの突如の死を直視した時に彼の泣き崩れる姿だけが記され、王として、父親としての威厳というか、確固とした姿を見ることができず、やはり人間ダビデの弱さの面を垣間見ることになると思います。
しかし、イスラエルの王、神に取り扱われたダビデ王の主への嘆願の祈りが、7節「主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように」と「あなたの民の上に」という表現は王として自分もまたその民たちをも包含した神の前に謙虚な姿をダビデの中に見ることができます。
私たちはそれぞれ少なからず健康が与えられてすべての人に眠りが与えられているということ、様々な恵みもさることながら試練や困難、問題の中でもダビデが歌っているように6節「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主が支えてくださるから」
数限りない毎日毎日の歩みの中で起こります、出来事。感謝できる事柄も多くありますが、今日一日では解決できない問題や試練もあります。その場を乗り越えることのできる感情や体力もさることながら主に身を任せ、ダビデが信頼して主からの眠りを与えられ心安く歩まれたように主への祈りをもって今週も歩んでいきましょう。