10月22日のメッセージ

202310月22日「キリストと出会う24」 

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1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
 6 イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼の言うことを聞かなかったのです。9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11 わたしは、良い牧者です。

 

<名前のある私たち>

 10章になり、イエス様は自分を『わたしは、良い牧者です。』と紹介しました。今日から2回にわたり、『良い牧者であるキリスト』というテーマで、そして本日は、『私達の名を呼ぶ方』、というお話をします。名は、ただの判別記号ではなく、存在そのものを表す言葉です。古代において、名を知る、名を呼ぶ、とは、相手と深く結ばれ、関わることを意味しました。私達には名前があるのです。そして神は私達一人ひとりを『その名で呼』(3節)ぶ方です。

 

 現在、中東パレスチナでは、ガザ地区(主にアラブ民族)と、イスラエル(主にユダヤ民族)、との戦争が起こり、諸外国を巻き込み、政治、経済、宗教、歴史などの様々な事柄や思惑が絡まり合い混沌としています。どちらの側に立つかを迫られ、世界が2分されたかのように感じます。

 一方で報道をよく見れば、ガザ地区にもキリスト教徒がいたり、アメリカではユダヤ人によるイスラエルへの抗議運動があったりと、物事は単純な二元論では語れないのだと思わされました。

 

 カザ地区に住んでいる(閉じ込められている?)人はいます。けれど、ガザ人という名の人はいません。イスラエル国籍の人はいます。けれど、イスラエル人という名の人はいないのです。 生まれ育った背景も、個性も、経験も、人格も、考え方も、異なる一人ひとりがいるだけです。神に創造された尊い個別の一人ひとりが存在しているのです。双方で、5000名以上が死亡と、数字が上がりますが、その一人ひとりに名前が、それぞれの生涯があったのです。

 

 ◎◎人、▢▢派、△△党、◉◉主義、私達はそのように人間を分けますが、それらはその人の一部ではあっても全てではないのです。そんな一枚のレッテルで語れるほど、人間は、世界は単純ではないのです。逆にそのようなレッテルを貼り付けることで、その人の存在の尊さ、をはじめ、大切なものが見えないように隠されてしまうのです。

 

<レッテルを貼り付けたパリサイ人、名を呼んだキリスト>

 この10章は9章の続き、盲人を見下し、追い出した、目は見えるが心の眼は盲目だったパリサイ人との話の続きです。パリサイ人たちは、宗教的でない人、問題を抱えた人をひとくくりにし、『罪人』や、『地の民』と呼びました。一人ひとりの名前の上に、『罪人』や『地の民』という蔑視表現のレッテルを貼りつけ、見下していたのです。その人の名が、その人の存在や尊さが、『罪人』というレッテルによって隠され、一括りにされ、神に愛されない者たちとして、押しのけられていたのです。

 

 確かに、痛みや問題を抱えた人、失敗や落ち度のある人もいたでしょう。けれどもけっして『罪人』という名の人はいなかったのです。そして、私達の主イエスは、押しのけられた盲人の人に、名を呼ぶように、その人格に向き合われました。 (福音書は初代教会で共有された書物という特性上、名が記載されるのは、初代教会内で共通認識がある人物のみに限られましたが)直後の今日の箇所では、一人ひとりの名を呼ぶ、羊飼いとしてご自身を表されました。

 

2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

 

 イエスは自分を、門や羊飼いに例えます。そして、私達は羊に例えられます。羊は視野は広いのですが、奥行きを捉えるのが弱く先を見通せないため、窪地に転落したり、迷ったりします。また、1つの出来事でパニックになったり、周囲に流されやすいので、私達人間に例えるのは分かります。

 

 けれど、クリスマス物語を思い返していただきたいのですが、羊飼いは見下され、差別された存在です。その見下された存在にご自分を例えてくださった。それは、謙遜なイエス様の姿勢であり、『羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため』(10節)に身を粉にする羊飼いのように、私達にすべてを捧げてくださるイエス様の姿勢です。

 

 中東の羊飼いは、一匹一匹に名をつけます。『羊』ではなく、『数字の番号』でもなく、一匹一匹の名を『その名で呼』ぶのです。100匹を大切にしつつも、一匹一匹の名を呼ぶのです。『私たちの名』ではなく『私の名』を呼び、『私に』向き合い関わる羊飼いです。

 その羊飼いは、すべてを大切にしつつも、100匹のうち、一匹がなくなれば、他の99匹を置いて、一匹の私を探し求め、見つかれば大勢を招いて大宴会をするほどの方です(ルカ15章)。

 

 あなたは、いままでどのようなレッテルを貼られてきましたか?どのように自分にレッテルを張ってきましたか?罪人、失敗者、病人、失格者、役立たず、・・・私達には、そういった面は、私達の一部かもしれません。けれど、全てではないのです。神はそのような一枚のレッテルでは、私たちを見ないのです。イザヤ書には、ヤコブ・イスラエルなどに代表される神の民が、力なく、抑圧され、見下されていた時、神が語りかけた言葉があります。

 

43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

そしてこう続きます。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

神はこのようにあなたを、そして、あなたの隣の人を見ているのです。

 

 罪人、失敗者、病人、障害者、異教徒、性的マイノリティ、外国人、そんな名前の人はいないのです。神に愛されたあなたが、そして、あなたの隣人がいるだけなのです。私たちの神は、一人ひとりの名を呼ぶ、善い羊飼いです。

 

<今週の黙想>
 あなたはどんなレッテルを貼られてきましたか?自分で自分に貼り付けていますか?人に貼り付けていますか?ルカ15章を読み、神のまなざしを覚えながら、それらを少しずつはがしていってみてください。

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