毎日の聖書10月16日〜

おざく台教会毎日の聖書 10月16日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

10月16日(月)エゼキエル書26章  

17節「おまえについて、哀歌を唱えて言う。海に住む者よ。おまえはどうして海から消え失せたのか。海で強くなり、ほめはやされた町よ。」

 様々な驕り高ぶる国への神の語りかけが続きます。ツロという海辺の勢力は、繁栄し、力を誇りました。周囲は、ツロに讃歌を唱えました。しかし、やがて、バビロンによって(その背後にある神の裁きにより)廃墟のようになります。

 私達の周囲には、称賛を受け、それらに従ったり、求めることが、正しいのだとされる人物、団体、思想、価値観が溢れています。ある時や、ある状況では、それらは有益かもしれません。けれど、永遠の視点、神の目線で、でそれらをもう一度捉え直してみてください。

 

 

10月17日(火)エゼキエル書27章

3節「ツロよ。『私は全く美しい。』とお前は言った。」

 私達は神様に素晴らしく心を込めて創造された神の傑作です。(創世記1:27、エペソ2:8)神は私たちを見て、『非常に良かった。』(創世記1:31)と言われました。 私たちは神の目に、尊く、美しいのです、そのことに間違いはありません。

 けれど、ツロは、神を抜きにして、神の基準でなく、自分自身の基準で、自分を量り、誇りました。私達自身の基準も、周囲の基準も、揺らぎ、移り変わります。けれど、神が私たちを見る愛の眼差しだけは、決してどんな時も、どんな場所でも、変わらないのです。

10月18日(水)エゼキエル書28章

2節「あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」

 最も悲劇的な罪とは、自らを神とすること、と聞いたことがあります。性的搾取を長年続けたアイドル事務所では、社長は神のように崇められ、周囲や報道機関はひれ伏していました。侵略を続ける独裁者は、自らを神のような地位に置きます。愚かで悲劇的な行為は、自分を神のように(または神の代弁者・代務者のように)考えることから始まりますし、それは私たちにも言えることかもしれません。

 一方で、神であり、人ではないはずのキリストは、人となり、へりくだり、十字架にまでかかられました。神の前での謙遜こそが、私達の歩みを、いのちの道へと、人を祝福する生き方へと、導くのです。

10月19日(木)エゼキエル書29章

21節「彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 宗教改革者ジャン・カルヴァンは、罪とは『神を神とすることに失敗すること』、と定義しました。自分や、他の何かを神として崇める時に、人は大切なものを見失うのです。

 人間は、ギリシャ語で、アンスローポス、という言葉です。「顔を」、と、「上に向ける」という言葉から出来た言葉です。

 人が顔を上に向ける時、神を見上げる時、私達は真に人間らしく、謙遜に、誠実に、優しさを持って、生きることが出来るのだと思います。私たちが神を神として、神を見上げて、神こそが主であることを覚えて、今日一日を歩むことが出来ますように。

10月20日(金)エゼキエル書30章

10節「わたしはバビロンの王ネブカデレザルによって、エジプトの富を取り除く。」

 歴史的に見れば、バビロンがエジプトに勝利した、ただそれだけです。けれどこの箇所から、その背後には神の働きがあった事が分かります。神は、現在の世界を高い雲の上から傍観しているのではなく、世界の情勢にまで関わってくださる方です。

 平和の実現のために、あなたの示される国や、為政者のために、神の働きを祈ってみてください。

10月21日(土)エゼキエル書31章

10節「そのたけが高くなり、そのこずえが雲の中にそびえ、その心がおごり高ぶったから」

 与えられた才能や立場、豊かさや成功は、神様の祝福の1つの表れ方です。それ自体は悪いものではないですし、感謝して、神と人のために用いるべきです。

 しかし、人は勘違いし、高慢になり、自分に栄光を帰してしまいます。だから使徒達は「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコ4:6、第一ペテ5:5)と口を酸っぱくして、強調しました。大作曲家のバッハは楽譜の最後に「ただ神にのみ栄光あれ」と記しました。

 私たちが謙遜に、神の愛と憐れみを表し、神にのみ栄光を帰す歩みを、今日一日することが出来ますように。

10月22日(日)エゼキエル書32章

15節「彼らは、わたしが主であることを知る。」

 エゼキエル書でこの言葉あもう何十回目でしょうか?語られるメッセージも同じことです。このままでは、やがて後悔の中で、神を知ることになると。

 イスラエルのように御声に耳を傾けて知るか、エジプトのように高慢と反抗の果てに全てを失って痛感するか・・・私達はどちらの方法を選びましょうか?

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