10月15日のメッセージ

202310月15日「キリストと出会う23」 

 

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

 

24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 

34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

 

39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

 

<アメージング・グレイス>

 賛美歌、アメージング・グレースの歌詞は、原曲では以下のようなものです。

Amazing grace how sweet that sounds, that saved are wretch like me

驚くばかりの恵み、なんと素晴らしい響き、穢れた私を救ってくれた

I once was lost but now am found ,was blind but now I see

かつては迷っていたが見つけられた、かつては盲目だったが、今は見える

 

 この賛美歌の作者のジョン・ニュートンは、今日の9章の生まれつき盲目箇所から、自分の人生を重ね合わせて、歌詞の一部を記したと考えられています。

 ニュートン自身は、敬虔な母に育てられましたが、自身はそうでもなく、海兵を経て、奴隷貿易に携わり、多くの人の人生を狂わせ、打ちこわし、粉々にした人でした。(今日では、考えられませんが、当時のイギリスではそれが普通だったのです。)

 やがて、30を過ぎて牧師をこころざします。自らの過去の行への反省、過ちを犯した自分さえも救おうとする恵みに感動し、貧しい人に寄り添い、奴隷制度廃止にも力を注ぎました。ニュートンが応援したウィリアム・ウィルバーフォースの人生は映画『アメイジング・グレイス』として日本でも公開されました。

 

 この盲人は病に苦しみ、ニュートンは罪という病に苦しみました、状況は同じではありませんが、自分自身が盲目であった、という面で、キリストに見つけられた、という面で、この生まれながらの盲人に共感したのかもしれません。

 

<悲しみや病を通して、見えるもの>

 見えること、盲目であること、それがこの9章のテーマです。(もちろん9章から、病や苦しみは、罪の結果ではない、ということはわかります。)

 

 当時、物理的にも、精神的にも、見えている!と自分を誇った宗教家たちは、実は盲目でした。この盲目の男性を神が愛していることを、神が尊く思っていることを、見えていなかったのです。イエスの奇跡があっても、盲人の目を開けられるのはキリストだけだと自分達で言っていたのに、安息日に奇跡を行ったから、と理由をつけて、イエスを否定し、この盲人を会堂から追い出し(社会的に村八分にし)たのです。

 

 今日の日本から見れば、物理的に目が見えて素晴らしい・・・けれど、2000年前のユダヤ社会において、会堂から追い出されることは、社会的・宗教的なあらゆるものの喪失を意味します。盲目でも得られた人間関係、物理的支援、わずかばかりのユダヤ人としての宗教的恩恵、それらが失われたのです。

 

 一方で、この盲人は、目が開かれただけでなく、神の愛の対象は誰か、イエスとは誰か、といった大切なことに対してまで目を開かれました。宗教家も、弟子たちも掴みきれなかったことを、この盲人はまっすぐに見ることが出来ました。彼の言葉は、行動は、聖書に記され、賛美歌の歌詞となり、今も私たちに大切なことを教えてくれています。

 

 詩人で批評家の若松英輔さんは、その著作や番組で、悲しみは扉のようなもので、そこを通らなければ立ち得ない場所がある、見えないものがあり、語れない言葉がある、とおっしゃっていました。

 決して、悲しみを肯定しているわけではありません。病などないほうがいいのです。失敗や過ちなどおかさないほうが良いのです。悲しみなど、病など、自分とは関係ないように生きられたらどれだけ素晴らしいでしょう。けれども悲しみからは、失望や落胆しか生まれ無いのではなく、この盲目の男性のようにキリスト共になら、悲しみから生まれうるものがあるのだ、そう言っているのです。

 

 旧約聖書イザヤ書53章には、私たちに与えられる救い主・キリストを預言して、(人間についてではありません、キリストについて、神について)こう記されています。

『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で 病を知っていた。』(イザヤ書53章3節)

 この箇所は『苦難の下僕』と呼ばれ、神の与える救い主キリストの苦難を記しています。そこには、盲人の盲目やニュートンの罪とは、そして私達の悲しみとは、完全に同じではないですが、別の形で、私達以上に、苦しみ、痛み、悲しんだことが分かります。

 

 私達の主キリストは、悲しみを知ってたのです。そして、悲しみを知る者の眼差しを持って、私たちを見てくださるのです。むしろ、悲しみを、痛みを、病を、知るからこそ、本当のことが見えていた、この盲人の価値を、尊さを、見えていた、のかもしれません。

 ご自身の悲しみ、病、痛み、それに目を向けることも大切でしょう。その時、それだけではなく、キリストの悲しみ、苦しみ、痛みにも、同時に目を向けてみてください。

 

<私たちを見つけてくださるキリスト>

 この見えるようになった箇所、目が見えるようになるのも、神が見えるようになるのも(大切なことが分かるようになるのも)、じつはキリストが彼を見つけることから始まったのです

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

このことで、彼は見えるようになっていきます。

宗教家は、彼を呼び出し、問い詰め、ののしり、彼を会堂から追い出しますが、

35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子

を信じますか。」

こう、尋ね、彼は神を見るようになっていきます。

 アメージンググレイスの歌詞のとおりです。私たちは自分で神を見つけるのでなく、イエスに見つけられたのです。

 

 失敗も、悲しみも、病も、過ちも、無い方が良いのです。けれど、イエスが悲しむ私たちを見つけてくださるから、そこから生まれるるものもまた、あるのです。

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