毎日の聖書 10月9日〜

おざく台教会毎日の聖書 10月9日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

10月9日(月)エゼキエル書19章  

14節「これは悲しみの歌、哀歌となった。」

 イスラエルが獅子に例えられ、痛み、悲しみ、嘆き、無念さ、後悔、そういった思いが溢れた歌です。祖国を失うという耐え難い悲しみは、一方で、偶像崇拝への反省と、まことの神への熱心へとつながりました。 

 もちろん悲しみはないほうがよいのです。けれども、イカトリックの詩人で批評家の若松英輔さんは「悲しみは扉のようなもので、そこを通らなければ立ち得ない場所がある。」と言いました。神とともに通るべき悲しみもまた、あるのかもしれません。

 

 

10月10日(火)エゼキエル書20章

11節「わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。」

 神の語りかけは、(キリスト教会の伝統や慣例、牧師のバイアスのかかった聖書解釈ではないことに注意してください)、私たちを生かすものです。心と魂に潤いを与え、自己中心や、欲望から私たちを守り、人を祝福する生き生きとした歩みへと導きます。

 1つでも良いのです。示された神の言葉を、大切にし、行う一日としてください。 

10月11日(水)エゼキエル書21章

27節「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。

 某アイドル事務所の長年に渡る性的搾取とその隠蔽行為がニュースになっています。たくさんの人々が夢中になり、経済を動かし、報道各局が忖度するほど影響力のある会社でしたが、一度解体されたほうがよい、という判断になるようです。

 エルサレムが、バビロンによって滅ぼされたように、懐かしさや愛着があっても、偽りのものは、歪み狂ったものは、時には一度崩され、新たに建てられる必要があるのかもしれません。某事務所だけでなく、私達の生活や身近なところにも言えることかもしれません。神とともに崩し、神とともに建てる、そのようなものがあるか祈り問うてみてください。

10月12日(木)エゼキエル書22章

30節「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」

 神様の願いは、罰することでも、復讐することでもなく、愛する者たちが変わることです。失われ、死にゆく、滅びゆく者たちを取り戻すことです。

 そして、そのために、立ち上がる者を願っておられます。このバビロン捕囚の時代にはいませんでした。けれども、洗礼者ヨハネ、そして、イエス・キリストを通して、多くの無学な、貧しい者たちが、立ち上がりました。そして、神の祝福が多くの人に届いていったのです。あなたは?

 

 

10月13日(金)エゼキエル書23章

49節「あなあがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」

 神を侮り、軽んじ、無視した人々は、自らの国が他国によって滅ぼされるという悲劇を通して、神の言っていたことは本当だったと知りました。一方で、早くから耳を傾け、祝福を通して、神の言うことが本当であったと知ることも出来たのです。

 私達は、「神を無視した南ユダ王国は愚かだったなぁ・・・」と思うかもしれません。では、私達はどうでしょうか?神様のあなたへの語りかけに、しっかりと耳と、心とを、傾けているでしょうか?

10月14日(土)エゼキエル書24章

15〜18節「15 次のような主のことばが私にあった。16 『人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。17 声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。』18 その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。」

 反抗的な民に一所懸命に語りかけるエゼキエル。そして、急に亡くなった彼の妻。神がメッセージに利用しようと殺したのではなく(そんな神様イヤですね・・・)、彼女の死はもともと定まっていて、その際に嘆かないように振る舞うことで、人々へのメッセージとしなさい、という意味だと私は理解していますが・・・

 それでも。預言者エゼキエルは一生懸命に仕えていたのですから、もう少しなんとかならなかったのか、と、いたたまれない気持ちになります。

 神は愛であり、優しく、憐れみ深い、そう分かってはいるのです。けれど、聖書のいくつかの出来事や、悲惨なニュースなどに触れると、分からなくなることも多いのです。

 けれど、きっと無理やり理由をつけて自分自身を納得させる必要はないのだと思います。悩んだり、疑ったり、文句を言ってもかまいません。1つだけ、神は十字架で死ぬほどに私たちを愛しておられる方だと、それさえ忘れなければ、それで十分なのです。

10月15日(日)エゼキエル書25章

2節「人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。」

 前半ではアモン人。さらにモアブ人。エドム人、ペリシテ人など続きます。神と関係ない人は存在せず、見逃される悪事もありません。「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」(ローマ14:12)

 けれど、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。 この方こそ、私たちの罪のための—私たちの罪だけでなく、世全体のための—なだめの供え物です。」(第一ヨハネ2章1〜2節)

 神の愛と赦しもまた、向けられ、差し出されていない人など一人もいないのです。

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