6月25日のメッセージ

おざく台教会2023年6月25日「キリストと出会う⑧」

 

<聖書>ヨハネの福音書3章

22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て。バプテスマを受けていた。・・・25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて議論した。
 26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。
29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

<私達の価値観>

 学校では教師が、生徒に夏休みに読んでほしい本を紹介します。若松英輔さんの『悲しみの秘儀』、村上春樹さんの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、佐々木正美さんの『こどもへのまなざし』、その他、いくつか浮かびましたが、私にとって、聖書以外でもっとも大きな衝撃を受け、私の見方、考え方、生き方を変えた本は、北海道浦河にある『べてるの家』についての『治りませんように〜べてるの家のいま〜』(斎藤道雄著 みすず書房)でした。

 

 この本は、アウシェビッツ強制収容所を生き残った少年が、燃やされ殺された家族に語りかけるところから始まります。「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください。ぼくは幸福になったりしませんから。決して、幸せになることはありませんから。あなた方を忘れないために。あなたがたの死を生きるために。あなた方に対して開かれているために。」

 べてるの家では、人間は苦労し苦悩するもの、そしてやがて死ぬものだと、とう世界観が貫かれている。 幸せになることを否定したり、不幸や問題を肯定しているわけではない。けれど、一般的な幸せだけを価値基準として、自分の生を肯定できなかったり、人や世界の痛みや悲しみに閉ざされてしまう傾向が私達にある。弱さも悲しみも、問題を抱えた自分も否定せず、むしろそれらを味わい、悲しみ、苦悩しながらも、それらを通して他者と、人の歴史とつながりながら、本当の意味で人間らしく生きることに、大きな価値がある、そう教えてくれた本でした。

 

 私達は人よりも一点でも高い点数を取り、1つでも高い偏差値の大学(学部)を目指し、1つでも良い順位を求め、1円でも多く稼ぐことのできる仕事や役職に就きたいと願います。SNSならば、一人でも多くのフォロワーを、1つでも多くの『いいね』を求めるのです。

 そして、問題や、病や、痛みや、苦労、困難は、良い人生を損なう悪いもの、無駄なもの、避けて、否定すべてきものとして、嫌い、避け、拒絶し、直面したならば、嘆き、『神よ、なぜ!?』と叫びます。

 

 それらは正直な思いかもしれませんが、その基準でしか自分を、人を見られない時、どこかで危うさを感じます。もちろん、勉強も、スポーツでも成果を出してほしいですし、就職や出世も良いことです。病や問題は、避けられるのならば避けたい。心穏やかに、喜びと充実感に満ちて、生きてほしいのです。けれど、人の価値は、生きる意味は、それだけで測れない、測ってはならないのです。

 

<人生の失敗者ヨハネ??>

 今日の登場人物であるヨハネは、一般的な視点では、完全な失敗者となります。洗礼者ヨハネとして、ユ

ダヤの国中の話題となり、政治家や宗教家、王でさえも、一目置く存在となりました。国中の人が彼に会いにかけつけ、彼の弟子となりました。(今日なら、フォロワーがたくさんいる、インフルエンサーや、有名人とでも言うのでしょうか?)

 

 けれど、ヨハネは人々の期待通りには立ち回らないのです。自分でなく、イエスこそが救い主だと人々に示し、自分に従う人々を、イエスの方へと向かわせます。ヨハネを指示する(推す)者たちは、人々がイエスの方に流れることに苛立ちますが、ヨハネはそれを喜び、『あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。』と言います。そしてこの言葉を最後に、福音書にはもう登場しません。王の罪を大胆に指摘し、捕らえられ、策略により、首をはねられたのです。

 これだけの人気なのですから人脈を活かし、名声や豊かさを享受しても良かったのに、役割を終えたと引退し、今までの実績を利用して良い地位につき、幸せな老後を送ればよかったのに・・・

 私達の基準で言えば。愚かな判断、人生の失敗者でしかないのです。

 

 何を得たか(Having)、どんな功績があるか(Doing)、それで私達は人を、自分を測ります。あの人よりも、多くの財産や、家族、友人を持っている、その人よりもさらに多くを成し遂げた。ヨハネの弟子たちはこの基準で、イエスとヨハネの人気の逆転を見て焦りました。

 

 しかし、ヨハネは弟子たちに言ったのです。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」(27節) 人目を意識して人気を得ようとするのでもなく、誰かとの比較で満足するのでもなく、天から与えられるものこそが、私達にとって本当に大切だというのです。

  

 ヨハネにとってのそれは、神との繋がりであり、神が『生きよ』と自分に与えてくれた人生を生きることでした。 人々の基準で考える幸せで自分を測るのでも、イエスとの比較で一喜一憂するのでもなく、自分がどんな存在であったか(Being)、何を得るかではなく、人々に何を与えることができるか(Giving)を大切にしたのです。

 

 『治りませんように』では、アウシェビッツを生き抜いたユダヤ人のV.E.フランクルは、『夜と霧』の引用が出てくるのですが、その中で彼は、『私達が人生の意味を問うのではなく、私達は人生に問われている存在なのだ。』と述べています。

 

 ヨハネは神が自分に与えられた生涯を、自分に問うてくる人生を、賢明に生きた人でした。何を得るか、成し遂げるかもとても大切です。でも、それ以上に大切なのは、神が『生きよ。』(エゼキエル16:4〜6)といって与えてくれたそれぞれに違う人生を、『これが道だ、これに歩め。』(イザヤ30:21〜22)とそれぞれに与えてくれた自分だけにしか歩めない道を、生きること、歩むことです。その意味で、ヨハネは愚かでも、失敗者でもないのです。彼は与えられた生を、賢明に生きたのです。

 

<あなただけにしか生きられない生を生きる>

 20歳の時に、聖書を初めて読んで気付き、驚かされたのは・・・・神は私達、一人ひとりに計画があるということです。できれば別の人の人生を歩みたかった・・・(容姿端麗で頭脳明晰、おまけに大富豪で、健康長寿な人生、悪くないですね。)せめてこの荷物(問題や病など)は持たせられない人生がよかった・・・と思うこともあるかもしれません。横を見れば、他者が羨ましくなり、神様に大切に扱われていないと感じることもあるかもしれません。

 

 あなたの悲しみや、痛みや、不安を、少しも知らずに言うことを、申し訳なく思います。安全圏から、他人事のように、語りかけるのは傲慢で、あなたをより深く傷つけるかもしれません。そうなったら本当にごめんなさい。自分でもひどい人間だと思います。でも、これからお伝えすることの意味を、みなで一緒に考えたいのです。

 

 神は愛と計画を持って、あなたをこの世界に送り出しました。悲しみ傷つくことや、負いたくない重荷と共に生涯を歩むこともあるかもしれません。それでも神は、『生きよ』とあなたにしか歩めない生涯を用意しました。そして、責任を持ってあなたの生涯をともに歩み、支えられます。

 他人の評価など、人との比較など、究極的には気にしないでください。自分の人生になんて意味がない、言わないでください。 『生きよ』と言われた神は、私達が生きていること(Being)を心から喜んでいる。あなたが、あなただけの生を生きること、それが神の、私達の、喜びなのです。

 神の与えられた生を懸命に生きておられるみなさんの姿が、私に生きる勇気と力を与えてくれます。(キリスト教的に言うなら、それこそが証です。)あなたは尊い、大切な方、キリストが身代わりに死なれるほどの方です。あなたが生きてくれている毎日は、神にも、人にも、大きな大きな意味があるのです。

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