6月11日のメッセージ

おざく台教会2023年6月11日「キリストと出会う⑦」

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<聖書>ヨハネの福音書3章

1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<聖書の、福音の、真髄>

ある著作の中で、その一節が有名であり、著作の真髄とも言える、そんな文章があります。 

「人間は考える葦である」(パンセ バスカル著)

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」 (ハムレット シェイクスピア著)

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(方丈記 鴨長明著)

 聖書では(とくにキリスト教のプロテスタントの人にとっては)、このヨハネ3章16節「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。の箇所が、神の愛、キリストの犠牲、私達の救いなどが含まれていて、大切にされています。ではどんな文脈で語られたのでしょうか?

<下からでなく上から>

 登場人物はパリサイ派で指導者でもあったニコデモです。パリサイ派とは、信仰に熱心な人々。ユダヤの指導者とは現在では、政治家であり、権力者でもあります。ニコデモは歴史の中でも輝かしく名が記録される、偉大な宗教家であり、政治家でした。彼には地位があり、知識があり、富があり、人望があり、全てを持っていました。間違いなく世界で一番に神に愛され、一番に神の国に入る、そう考えられていた人でした。

 そのニコデモが「夜」にイエスに会いに来るのです。夜とは、人目を避けて、と言う意味もあり、光と闇が象徴するように、全てを持っていたニコデモですら、光の中にはいなかった、という意味もあるとされています。

 ニコデモは人が羨む全てを持っていました。けれども彼自身が、現状に疑問を、自分自身の必要を感じ、イエスに会いに来たのです。自分を誇るのでなく謙遜であり、自分の内側の欠けや乾きを見つめることの出来る人でした。

 ニコデモは、どのように神の国に入るのかを聞きに来たのだと思います。その思いに先んじて、イエスは

言うのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 このそして、「新しく」、とは、「上から」とも訳される言葉です。つまり天からの介入により神の国に入るのです。当時考えられていたように、善行を積んででも偉業を成し遂げてでもなく、完全無欠に生きたご褒美に神の国に入れてもらえるのではないのです。人は何かを積み上げ天に登るのではないのです。

 ただただ、上から、神から、なのです。 そしてイエスが「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と続けるように、(水は洗礼を意味するとされます)、神により生まれ、神と出会うことが出来るのです。

<人からでなく神から>

 私の勤めている学校は、ルーテル系のミッションスクールであり、宗教改革者マルチン・ルターの流れにあります。ルターもまた、修道士であり、宗教的知識が、社会的立場がある、ニコデモのように優れた人物でした。けれど、同じように神に愛されている、受け入れられている確信がなかった。神は自分を罰する恐ろしい存在だと怯えていた。だから一生懸命に、宗教的知識を詰め込み、城の塔の階段を手だけで、1段ずつ祈って登った。優れた自分を差し出すことで、神の怒りやバツではなく、恩寵を受けようとしていた。

  イエスは言いました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(13節)神との出会いは、下から這い上がるのではない。上からやってくるのです。下から私達が差し出すのではなく、上からキリストが差し出すのです。

 けれど、聖書は語ります。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって

世が救われるためである。」(ヨハネ3章17節)これがルターにとっては神観の大転換であり、ある意味恵みの神に出会ったことこそ、彼にとっての救いでした。

 そして、悟りや、善行や、正しさではないのだ、私達が愛され救われるのは、恵みのみなのだ、信仰のみなのだ、と宗教改革を行ったのです。

 

 イエス様が示したのはめぐみの神です。人を苦しめ、犠牲を強要し、気に食わなければ切り捨てる恐ろしい神ではない。私達を愛し、全てを差し出す方です。神が私達に求めるのは、キリストが身代わりに捨てた命を、ただ受け取ってもらいたい、それだけです。

 イエスは続けます。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(14節) モーセの時代、罪の結果として蛇に噛まれた人たちが、死を間近にして、モーセは青銅で作った蛇を竿で掲げ、「その者が青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。」(「民数記」21.5-21.9)という出来事がありました。彼らがしたのはただ、見上げただけです。私達もまた、十字架にかけられたキリストを見上げるだけなのです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イザヤ書45章22節

 

最初に挙げた聖書の言葉、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ここでは、与えるのも、愛するのも神です。私達は、信じ受け止めるだけなのです。神は愛なりと、見にくいままで、罪深いままで、見上げることだけです。

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