毎日の聖書6月5日〜

おざく台教会毎日の聖書 6月5日~

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

6月5日(月)イザヤ書16章

14節雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。

 繁栄を誇ったモアブですが、人間の高慢の末路が記されています。人がどれだけ自らや、誰かを誇ろうとも、必ずや低くされるのです。あなたが誇るあなたの栄光は何ですか?キリストですか?それとも別の何かですか?

あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(第一ペテロ5:6)

6月6日(火)イザヤ書17章

7節「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、

 すべての人は、やがて創造主なる神様を見ることになります。しかし、勝利の喜びをもって見るのと、嘆きと後悔をもって見るのとでは大違いなのです。あなたの大切な人が恵みの神様と出会えるように、喜びを持って神様を見上げることが出来るように、祈ってみてください。

6月7日(水)イザヤ書18章

7節「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。

 

 「神のため」にと聞くと「過激派」や「カルト」、「原理主義」をイメージする人もいるそうです。しかしキリストは神のために生きました。それは人を生かす歩みであり、痛む人や必要を抱えた人に寄り添う歩みです。キリストに倣い、今日一日を神のために生きてみてください。あなたの行動は、選択は、言葉は、どう変わりますか?

6月8日(木)イザヤ書19章

25節「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」

 

 ユダヤ人は、エジプトやアッシリアを敵国と考えました。けれど、神はそうは考えませんでした。すべての人は神に造られた者であり、イエス・キリストは全ての人の創造です。神様を知らない方を、神が愛をもって創造された方々を、軽んじてはいませんか?むしろ敬意と愛をもって、とりなし祈ってください。

6月9日(金)イザヤ書20章

5節「人々はクシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」

 クシュも、エジプトも大国でした。目に見え、手で触れられる頼りはとても大切です。けれどもそれら

に頼りすぎるあまりに、時に私達は大切な物事を見失ってしまいます。

 あなたが本当は頼りとしているもの、心の中で栄えとしているものは何(誰)ですか?もしそれがまことの神様以外の何かなら、私達もまた、間違いを犯します。 祈り、神にまず第一に聞きながら、それらにも頼ってください。

6月10日(土)イザヤ書21章

17節ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。

 どれだけ好き勝手しても、神は放っておくに違いない。神の介入などない、裁きなどない、そう侮ってはいませんか? 神様は私達の悔い改めを待ち望んでいますが、かならずこの世界に介入してくださいます。放っておいてそのままにしている罪はありませんか?今日、神の恵みに応えてください。

『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』第二コリント6:2

6月11日(日)イザヤ書22章

12節「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」

 神様は日々私たちを悔い改めへと招いておられます。悔い改めとは方向転換を意味する言葉です。自分を神とする歩みから、神を知る歩みへ。自己中心から、人への愛へ。高慢の道から、謙遜の道へ。

それは、悲しみの人である、キリストの歩みでもありました。悔い改めこそが、キリストに倣う歩みこそが、私たちの救いの道です。

 神に立ち返る機会となるなら、悲しみや痛みにもまた意味があるのかもしれません。

『あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』ヤコブ4:9〜10

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