2月26日のメッセージ

2023年2月26日「神さまの良い知らせ21〜本当の平和、本当の救い〜」

 

<聖書 マタイの福音書21章>

1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」4 これは、預言者を通して言われたことが成就するために起こったのである。5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。8 すると、群集のうち大ぜいの者が、自分たちのの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。9 そして、群集は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

<外側の平和、内側の平和>

先週でロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年となりました。早く侵攻が止まり、これ以上苦しみや悲しみが続かないように祈るばかりです。聖書の中でも、神様の特別な関わりにより侵攻や戦争が止まる出来事がありますから、そのような介入があるようにと切に祈らされています。

 

同時に祈らされるのは、ウクライナの地で一人ひとりの安全や生活だけでなく、心が、魂が、守られることです。私達人間は不当な攻撃を受けたり、厳しい状況に置かれるときに、外側に被害を被るだけでなく、魂にも心にも深い傷を受けるのです。その傷は、憎しみや呪いの心を生み出し、私達の魂と歩みを蝕み、歪め、狂わせます。私達は外側に攻撃や困難に見舞われる時、内画にも平和が、癒しと回復とが必要になります。

ウクライナの方々の、そして私達の魂や心が、当然感じるべき、怒りや悲しみは感じつつも、しっかりと悪い物事にはNOと拒みつつも、その内側が憎しみ、失望、呪いで満ち、歪み、病んでいくことがないように、光や命を失うことがないようにと、祈っています。

 

現在のように人間の高慢さや身勝手さ、愚かさにより(罪深さにより)、世界も、私達も混乱する最中、先週水曜日が教会の暦では灰の水曜日、その日から4月9日の復活祭(イースター)へ向けて、キリストの十字架と復活を覚える、受難節(レント)が始まりました。このような時こそ、私達の神はどのような方なのか、もう一度思い返したいのです。

 

<ろばの子に乗った王様>

当時のエルサレム(イスラエルの首都)は、ローマ帝国によって支配され、反抗すれば剣によって殺され、重い税により苦しめられていました。イスラエルの人々は独立を望み、この現状を変えてくれる、ローマを倒し、支配から開放してくれる政治的な王、救世主を求めていました。

ですから、奇跡を起こし、病人を癒すイエスがやって来た時には、救世主がやってきた、ローマ皇帝を倒し、イスラエルを再び偉大にするための王がやってきた、『ホサナ(救ってください!)私達の願いを叶えてください。』と道に、上着や棕櫚の葉をひき、大歓迎するのです。

長年の屈辱の中にいた人々にとっては、イエスへの期待は自然なことです。私達は外側の問題の解決を素直に、正直に、神に祈り求めて良いのです。

 

けれど、1つだけ忘れないでください。私達は内側に、病があり、傷がある存在です。困難の時には、なおさらその影響が大きくなります。私達は、痛みが、苦しみが強すぎるばかりに、私達は自分の思いや願いでいっぱいになり、大切な声を聞き逃してしまうのです。大切な方が差し伸ばしてくれた手を取り逃してしまうのです。(事実、イエスを歓迎した群衆は5日後の金曜日には、こんな期待外れの救い主はいらないと、『十字架につけろ!』と叫ぶようになるのです。)

 

カトリックの詩人で批評家の若松英輔さんは、『「祈る」ということ、それは自分の考えていることを大いなるものに届けることではなくて、自分の中を空にして、大いなるものの言葉を受け取ることだと感じています。』とおっしゃっていました。苦難の時こそ私達自身のためにも、敵対する相手や目の前の問題以上に、キリストに目と、耳と、心を傾けたいのです。

 

イエスがエルサレムに入城する際に選んだのは、艶のある美しい軍馬でも、馬に引かれた戦車でも、恐ろしい獅子でも大きな象でもありませんでした。(どこかの国でのミサイルや戦車を並べた軍事パレードのように)威厳や力を示す生き物は選ばなかったのです。イエスは、ロバにのり、それも、ロバとロバの子を弟子たちが連れてきたのに、ロバの子のほうにのって・・・戦いや威圧とは全くかけ離れた姿で、柔和さをもってやってきたのです。

 

「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、」ゼカリヤ書9章9~10節 

神が遣わした救い主は、ろばの子に乗ったイエス・キリストでした。手を握りしめ拳を作ったり、自分には頼もしく敵には恐ろしい武器を持つのではなく、手を開き貧しい人に差し伸べ、その手のひらに十字架の釘を打たれるような方でした。

 

群衆が叫んだホサナという言葉は詩篇118篇25節『ああ、主よ。どうぞ救ってください。』のヘブライ語読みなのですが、その直前にはこんな言葉があります。『家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。』(詩篇118篇22節)神が用意した救いとは、平和の礎とは、この捨てられた礎の石から建てられる、十字架の死からもたらされる平和のことなのです。

 

私達は他の人から、問題から、病から、様々な状況から、身体も、生活も、魂も、心も、痛み傷つくような侵攻を受ける時はあります。そして、外側に受ける被害を通して、私達自身の内側にも、恨みや、憎しみや、妬みや、呪い、悪への傾向など、沸き上がり、神とともに歩むのを妨げてしまうのです。(実際に、イスラエルはこの数十年後に、紀元70年にローマ帝国と戦争をし、滅亡します。)私達は人からの敵意だけでなく、自分自身の内側から湧き上がる敵意からも守られる必要があるのです。

 

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』(エペソ教会への手紙2章14〜15節)

本当の平和は、キリストの肉、つまり、キリストの十字架によるのです。相手が反省するかも大切ですが、まず私達がそれを受け止めるのです。よく言われますが、人は変えられないが(大抵の場合変わらないのです・・・)、自分自身は変えることが出来るのであり、自分の内側を見張り、十字架に目を向け続けていたいのです。自分の内側に、いのちを、光を失わないために。

そして、イエスは神の柔和さを受け入れたものへの祝福も、しっかりと約束してくれています。『柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。』(マタイの福音書5章5節)これは詩篇37篇を背景とし、苦しめられた柔和な人を意味します。土地とは、当時において富と宝であり、望みと喜びでした。その地を受け継ぐ、神が決して放っておかない、外側と内側に豊かな祝福をも与えてくださる、そう誓っているのです。

 

<自分の勝利でなく、神の平和を求める者に>

最後に、13世紀のアッシジの聖フランシスコ、に由来すると言われる『平和を求める祈り』を引用します。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信頼を置かせてください。絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。なぜならば、与えることで人は受け取り、消えることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 

もし自分をロバの子と重ねるなら、あなたは役立たない道具ではなく、遜り、傷つけず、癒す、平和の道具なのです。キリストは、柔和なあなたを『お入用』なのです

 

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