毎日の聖書2月21~27日

おざく台教会毎日の聖書 2月21日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

2月21日(月)第一サムエル記25章

33節「あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。」

ナバルへの怒りに燃えるダビデに、神はアビガイルを送り復讐を止めさせました。ネガティブな感情に支配されるときこそ、人の言葉に耳を傾けましょう。その人は神が送られた天からの使いでもあるかもしれません。

また、アビガイルにより、報復を踏みとどまったダビデは、神様がナバルの罪に報いられたのを聞きました。このことが、約束を破り再び命を狙ってきたサウルへの報復を思いとどまらせたことにつながったのかもしれません。(26章では、機会がありましたが、神が必ずサウルを打つ、と語っています。)

怒りの中での神と人への謙遜は、祝福へと私たちを導くのです。

 

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」箴言13章10節

 

 

2月22日(火)第一サムエル記26章

11節「ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。主が油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。』」

ダビデには復讐のチャンスがありました。誰がどう見ても、悪いのはサウルの方でしょう。けれどダビデには、(25章で主がナバルの罪に報いられた出来事もあったのでしょう)、自分が神のように判断するのではなく(それこそが罪の起源です)、神様にお任し、自分は謙遜に神と人への誠実を貫く道を選びました。

預言者のように、誰かの罪を指摘する役割を与えられることもあるのかもしれません。しかし、たいていの場合、私たちは人の罪に思いを巡らすのではなく、神の前の自分の在り方に集中するのが最善なのです。

 

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」ローマ12章19節

 

 

2月23日(水)第一サムエル記27章

1節「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。』」

ダビデは自ら罪を犯さないため、サウルの手にかからないため、距離を取る道を選びました。私たちの、また他者の中にある罪の力は大きく、その罪の影響から免れるためにも、時には逃げてもいいのです。逃げたその先でも、主は共にいてくださる方です。難しい人と時には上手に距離をとること、それはあなたを、そして相手の人を罪と悪から守る道でもあるのです。

 

「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。」箴言14章14節

 

 

2月24日(木)第一サムエル記28章

6節 「サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、」

主はついにサウルに語るのをやめられました。それでサウルは自ら禁じた霊媒に手を出します。神の言葉がないことは、人をこれほどまでに迷わせます。あなたはサウルのように、自分が、怒りや、妬みや、欲求に支配されていると感じることはありませんか?幸いなことに、私たちには神の言葉が語られているのです。読みましょう。聞きましょう。従いましょう。神の言葉こそがいのちへの道なのですから。

 

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」申命記34篇8節

 

 

2月25日(金)Ⅰサムエル記29章

11節「ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。」

これから出陣!という時に、ダビデは前線から外されました。同胞を殺す過ちから、神が守ってくださったのです。意図しない出来事を体験したなら、静まって神様にその意味を祈り聞いてみましょう。あなたが罪を犯すことから守ってくれる神の配慮なのかもしれません。

 

「あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。」創世記20篇6節

 

 

2月26日(土)Ⅰサムエル記30章

6節「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

略奪で全てを失い「声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった」ダビデ。どん底の状況から立ちあがらせたのは、仲間でなく、状況の変化でもなく、彼の神、でした。私たちにとって互いの存在は不可欠です。しかし、本当のどん底にいる時、あなたを立たせることのできる方はあなたの神、なのですす。

 

「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。」詩篇145篇14節

 

 

2月27日(日)Ⅰサムエル記31章

13節「勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。」

サウルは、神に背き続けた果てに死にました。しかし、神は人々を動かし、遺体を葬らせます。ここに神の憐れみを感じるのです。私達とサウル、一体どこが違うのでしょう。歴史の信仰者たちは、それを知っていたのでしょう。「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)と祈り続けました。私たちも、ただただ主の憐れみによって生かされ、主の憐れみによって神の国に入るのです。

 

「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」ルカ18章13節

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