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おざく台教会2021年4月18日「復活のキリストの言葉③あなたはわたしを愛しますか?」

 

<聖書:ヨハネの福音書>

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

 

<私たちに問いかける神>

私達は聖書に、様々な答えがあると考えます。けれど、面白いことに、聖書は問いかけで満ちています。「あなたはどこにいるのか?」「あなたは私に何をしてほしいのか?」「あなたは私を誰と言うのか?」神様は人に問いかける方です。そして、今日のヨハネの福音書の最後の場面で、神様は一つの大切な問いかけをします。「あなたはわたしを愛しますか?」

 

<人との関わりを求める神>

「アナタハ神ヲシンジマスカ?」という古いセリフがありました。多くの人は神を信仰の対象だと考えます。しかし、聖書は神は愛の対象だと教えます。神は信じるものというより、信頼し、愛し、関わる存在です。

 

「あなたは私を愛しますか?」ヨハネの福音書は、この問いかけをするために記されたとも言えます。

ヨハネの福音書は1章で、神様がこの世界と私達を造り出した、私達のいのちの源だと。人は神との関わりの中でこそ、生きることが出来る。

しかしその神に背を向け、離れ、死んだようになった。だから、私達が再びいのちを得るために、神の子どもとなるために、イエス・キリストが来てくださったと語ります。(ヨハネの福音書1章1~14節までだけでも是非読んでみてください。)

それからずっと、ヨハネの福音書を通して、このイエスこそが神からの救いですよ、あなたのいのちですよ、と読む私たちに訴えかけ続けます。そして、最後の21章、ここ神様はペテロへ、私達へ問いかけます。「あなたは私を愛しますか?」この世界とあなたを形造った神を、あなたにいのちを与えこの世界に生まれさせた神を、あなたに日々恵みを注ぎ今この瞬間も生かしてくださっている神を、十字架であなたのために死なれた神を、よみがえりあなたと共にいる神を、あなたは愛しますか?大切にしますか?と問うているのです。

 

<神の無限の愛>

「愛しますか?」と問うということは、逆に言えば、人は神を愛せなかった、神を大切にすることを選べなかった、のです。

ペテロは自分とイエスとは関係ない!と3度言いました。(関係ない、これこそが罪の本質です。)自分を造った方に、背を向け、軽んじ、目と耳をふさぎ、唾を吐きかけてきた、それが聖書に記されている私達人間の姿です。それで幸せならばいいのですが、自分のいのちの源をないがしろにしたため、どんどん苦しく、悲しく、空しくなっていく・・そんな私達の姿に耐えられず、神様は何度でも手を伸ばし問い続けました「あなたは私を愛しますか?」

 

ペテロは、イエスを知らないと「3度」拒みました。「3」は当時特別な意味で使われた数です。完全数と言われ、完全に、完ぺきに、全く、などを意味しました。ペテロはイエスを完全に拒んだのです。全く捨て去ったのです。それでもイエスは現われ、ペテロに「3度」問うのです。「あなたは私を愛しますか?」

イエスは自分を裏切ったペテロを何度でも何度でも、完全に、無限に愛したのです。

<神の一方的な愛>

イエスを裏切ったのはペテロだけではありません。イスカリオテのユダも同じです。しかし、ユダは裏切りと言う自分の失敗を、自分で解決しようと、自死を選びました。一見責任感があるようですが、もっとも神を悲しませる選択です。宗教家がユダに語った「自分で始末することだ。」(マタイ27:49)これは悪魔の言葉です。

私達の過ちに、始末をつけられるのは、キリストの十字架だけです。

 

イエスは自分を裏切った弟子達のためにも、自分を殺そうとした宗教家のためにも、十字架にかかり、赦しを祈りました。そして復活の後、自分を裏切った弟子達を自ら訪れました。今回が「3度目」です。

弟子達が食事の用意をしたのではない。イエス様が彼らのために食事を用意し、いっしょに食べました。(食事とは親密な関係の表現です。)そして「彼らが食事を済ませたとき、」(21:15)つまり、十分にご自分の愛と赦しを表現した後で訊ねたのです。そう考えると、

「あなたはわたしを愛しますか?」この問いかけは別の響きを持って聞こえてきます。

「十字架でわたしはあなたを愛しました。十字架でわたしはあなたを赦しました。」

 

私達が何度無視しようが、裏切ろうが、失敗しようが、見捨てず近づいて問います。「あなたはわたしを愛しますか?」それは神の、一方的な、先行する、無条件の愛を意味します。「わたしはあなたを愛しました。」

 

ヨハネは晩年、どれだけ罪深くても、このキリストの無限の愛にすがるようにと、教会を励まします。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節

 

<イエスの目に映るあなた>

ペテロの本名はシモンです。植物の<葦>を意味します。弱いものの代表です。しかしイエスは、シモンをペテロ<岩>と名付けました。イエスの目にシモンは、強いものと写っていたのです。イエスを裏切ったシモンは、自分の弱さに失望し、自分はもうダメだ、やはり自分は弱い<葦>だ、と思ったでしょう。全てを諦め、漁師に戻ろうとしていました。

しかしイエスは、彼を見捨てず、「わたしの羊を飼いなさい」と教会のリーダーと言う大きな役目を任せます。だれが弱い<葦>にそのような役割を任せるでしょう?イエスは、ペテロを信じ、あなたは強い<岩>だと励ましたのです。神の愛を知り、その愛に応えたペテロは、イエスの目に映る姿に変えられていきました。

 

あなたは自分をつまらない存在、意味のない存在、価値のない存在、そう思っていませんか?

もしあなたに価値がないなら、どうしてイエスはあなたのために十字架にかかるでしょうか?どうしてイエスはあなたのところに来て「あなたはあなたを愛しますか?」とたずねるのでしょう?

イエスは、あなたを決して見放さず、見捨てず、何度失敗しても、近づき、期待を込めて訊ねてくださいます。

「あなたはわたしを愛しますか?」

 

<答(こた)えより、応(こた)えを>

わたし達はどう応えましょうか?

神様のこの問いに正解は、模範解答はありません。神が人となってくださったことに、十字架にかかってくださったことに、表面的な言葉ではとても足りません。

古い讃美歌の332番にこんな歌詞がありました。

「主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死によりてぞ我は生きぬ 我何をなして主に報いし」

 

もちろん、愛しますという言葉も大切です。けれど、神様の愛の大きさを感じたなら、私たちの心も身体も動き出します。あなたはどう応えましょうか?「はい、愛します」、というあなたにイエス様は何と言うでしょうか?

ペテロの場合は、イエスの羊を飼う、つまり、教会を導くことでした。

けれど私達はペテロではありません。私達一人一人は、神様によってユニークに造られ、違う場所に置かれた、別の人間です。それぞれが、神の愛に感動し、神様の語りかけに耳を傾け、自分なりに応答していく、それが神様のあなたへの望みです。

 

<今週の黙想>「あなたはわたしを愛しますか?」日々、この語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

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