4月11日のメッセージ&毎日の聖書(4月12日~)

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おざく台教会2021年4月11日「平安あれ」

 

<聖書:ヨハネの福音書>

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 

20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

 

 

<平和の挨拶>

幼いころ、祖母に連れられ、川崎の聖公会(英国国教会)の聖パウロ教会に行ったことがあります。礼拝の途中で、参加している方々が、「主の平和」と前後左右の方に、立って挨拶をする場面がありました。 「主の平和」、という不思議に心温まる挨拶が気に入り、手紙やメールの末尾に使っています。私達は心にも、生活にも、人間関係にも、平和を持つのが難しい。だから、互いに平和の挨拶が必要なのだと思います。この平和、平安、と訳されるのはヘブライ語で、シャローム。聖書の中でとても大切な言葉です。

 

<何による平安?>

みなさんはどのような時に、平安がないと、不安だと感じますか?

 

もしも主イエスが来られ、みなさんの前に立ち・・・コロナウイルスのワクチンや特効薬を示し、「平安あれ」と言ってくださったら?職場や家庭の問題を解決し、預金通帳に多額のお金を振り込み、「平安あれ」と言ってくださったら?

主イエスがあらゆる願いをかなえ、私達の平安を奪う全ての要素を取り除いてくださり、「平安あれ」と言ってくださるなら―――もちろん、別の感染症や災害が襲うかもしれません。職場や家庭に別の問題が起こるかもしれません。再び経済は悪くなるでしょうし、やがては健康を損い、結局他の大きな過ちを犯すでしょうが・・・―――少なくともしばらくの間、状況が改善した間は、私達の心は安心できるのです。

 

<主イエスの示したもの>

弟子達にとってもそうでしょう。もし主イエスが彼らの中に立ち、弟子達を恐れさせていた宗教家の首を示し「平安あれ」と言ってくださったら(ちょっと怖い例えですね・・・)、弟子達は安心したでしょう。または、人々の心を一瞬で変え、弟子達を歓迎するようにしてくれたなら、もし全ての状況を変えてくださったら、さらに言えば、時間を巻き戻し、主イエスへの裏切りをやり直せれば、弟子達は安心したでしょう。

実際に神様が状況を変えてくださる場合も多々あるのです(ですから大胆に祈ってください)。しかし、この弟子達の場合、まだこのヨハネの福音書の直接の読者である1世紀末の激しい迫害下の教会の場合、神様はガラッと状況や他の人を変えたり、整えたりはしていません。かわりに、主イエスが「平安あれ」と言って示したのは、ご自身の手と脇腹の傷でした。イエス様はまず弟子達を変えようとしたのです。

 

主イエスは十字架にかかる前の夜、こう話しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)十字架の死の際に、両の手に大きくあけられた痛々しい穴、わき腹を深くえぐり抜いた槍の傷跡、これが主が与えた「主の平和」なのです。

 

<ゆるし:過去への平安>

私達には数えきれない過ち、愚かさ、失敗、罪、醜さ、があります。しかし、その全ての責めや罰は主イエスが負われました。「神は、・・・私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13~14)

イエスの復活のからだに刻まれた十字架の傷は、私達の愚かさや醜さすら全て受け止め救ってくださる、神の深い愛と赦しの証拠です。

 

<共にある:現在への平安>

嵐のような状況の中で、私達は心細く、怯えます。しかし、主イエスの傷は、イエスが死に敗北したのでなく、復活し、今も生きておられることを意味します。その方は穴の開いた手であなたの肩を抱き、力強く宣言されます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたはどんな時も、どんな状況でも決して一人ではありません。神がいつも共におられ、あなたをその穴の開いた手で支え、導くのです。

 

<復活:未来への平安>

私達は死を恐れます。全ての失敗、欠乏、喪失、別れ、それらは死へとつながっているようで、私達を不安にします。しかし、主イエスは復活をもって、私達の恐れの源である死の、その先を示しました。主イエスは復活のからだに刻まれた脇腹の傷を示し言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。・・・このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)やがての日、穴の開いた主イエスの手によって、あなたも新しいいのちへとよみがえるのです。

 

<平和をつくる者>

イエス様はせっかく隠れていた弟子達を外に送り出しました。イエス様は言いました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」21節

弟子達は怯えているのに外へと遣わす。少しひどいですね(笑)けれど、弟子達も、私達もそのためにイエス様に招かれたのです。「平和をつくる者は幸いです。その人達は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

 

コロナ禍において、その影響を受けて過ごす中で、私達は余裕を失っています。今まで穏やかだった場所、人、関係にも、苦々しさが、見られるようになりました。

私達は外側の解決を求めます。けれど、そこに平和をもたらすために、私達がその場に置かれていること(遣わされていること)を忘れないでください。

 

ですから、平安を失ったなら、問題を見て煮詰まる前に、自分の内側に閉じこもる前に、イエスの手の傷跡に目を向けてください。天よりの平安がないと、地に平和をもたらせないからです。

 

主イエスは恐れる私達の真ん中に立ち、手と脇腹の傷を示して言われます。「平安があなたがたにあるように。・・・あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

その傷にふれながら、知ってほしいのです。私達の恐れる死が、欠乏が、喪失が、孤独が、迫害が、目の前の惨状が、全てではないのだと。それを超えるものが存在するのだと。主イエスは死に勝ちよみがえられたのだと。

そして、恐れる私達と共にあり、地に平和をもたらしてくださるのだと。

「あなたがたに平安があるように。」

 

<祈り>

復活のイエス様。恐れ閉じ込こもる私達のところへ来てください。

私達の真ん中に立ってください。「平安あれ」と平和の挨拶を告げてください。

あなたの手の傷を、脇腹の傷を、私達にお示しください。

私の汚れた手を、あなたのわきに差し入れることをおゆるしください。

そして、私達を見捨てず、語り励ましてください。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と。

かつては、内にも外にも平和のなかった私達を、あなたの平和をもたらす道具としてください。 アーメン

 

おざく台教会毎日の聖書 4月12日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

4月12日(月)Ⅰヨハネ4章

19節「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

私達は自分の努力や心がけで、神や人を愛するのではありません。神の愛を受け、それが心を満たし、溢れて、神や人へと向くのです。神は今まで、あなたをどのように愛してくださいましたか?腰を落ち着けて、今までの体験を一つ一つ出来る限り丁寧に思い返してみてください。その後で人を愛するために、立ち上がってください。

 

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」Ⅰヨハネ4章9節

 

4月13日(火)Ⅰヨハネ5章

11~13節「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」

ヨハネはキリストを信じた人々に、「あなたはもうすでに救われているのだ」と強調します。私達は救われるためにではなく、すでに救われたからこそ、神に従って歩むのです。救いへの不安や神への恐れを動機とするのでなく、救いの感謝と神への愛を動機とするのです。神に愛され、キリストに救われた神の子として、今日もいってらっしゃい。

 

「私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」Ⅰヨハネ5章20節

 

4月14日(水)Ⅱヨハネ

6節「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」

ドラマや小説などでは、様々な愛が描かれます。そこには、犠牲や献身など、愛の一側面が確かに表されているでしょう。しかし、完全ではありません。一般の愛には天の父が不在です。私たちは本当の愛を、天の父が送られたキリストの十字架から、そして天の父の語りかけである聖書から、教えられます。人を愛するために、今日、あなたは、どの御言葉に従いましょうか?

 

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12章2節

 

4月14日(木)Ⅲヨハネ

2節「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

いわゆる「霊的」なことだけを大切にし、体や生活をおろそかにする異端のグノーシス派に初代教会は悩まされました・(伝統的なユダヤ人は、霊と身体を決して切り離せないものとして考えていました。)健康が全てで神様を疎かにしては意味がないですが、神から与えられた身体を大切にし、毎日を丁寧に、感謝して生きることは、神様の願いです。今日一日、神から与えられたあなたのからだを大切にしてみてください。

 

「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント10章31節

 

4月15日(金)ユダ

22~23節「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」

ユダのテーマは異端・偽教師への注意です。しかし同時に、彼らは神のあわれみの対象なのです。キリストを否定する全ての人のために、キリストは十字架にかかれました。今日、あなたのまわりで、キリストに否定的な人のために、とりなして祈ってみてください。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23章34節

 

4月16日(土)黙示録1章

5節「死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、」

黙示録は、終末の時代を描いたファンタジー小説ではありません。1世紀の迫害に苦しみ信仰がゆらぐ信仰者達に、全世界の王はローマ皇帝ではなく、キリストであると示し、その王こそが私たちを救ってくれるのだと、迫害への忍耐を励ます手紙です。

あなたはどのような「王」に従っていますか?今日も、まことの王、キリストにこそ従ってください。

 

「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」黙示録11章37節

 

4月17日(日)黙示録2章

10節「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

黙示録の書かれた1世紀末の教会にとって、死とは、単なる言葉の表現ではなく、文字通りの死でした。私たちは信仰ゆえに死に至ることはない時代に生きてはいますが、キリストに従う道には自分に死ぬ(高慢な自分や、内なる罪の性質に対して死ぬことの、キリスト教的な例え)ことは日々求められています。今日、どのように自分に死にましょうか。

「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ローマ6章11節

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