9月20日のメッセージ

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2020年9月20日「困難の時に知っておきたい聖書⑯~はみ出し、踏み越える愛~」

 

<聖書 ローマ人へ手紙>

5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

<ファミリータイム 創世記>

44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべであるしらが頭の私たちの父を、悲しみながら、よみに下らせることになります。・・・ 44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。 44:34 あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。 45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。 45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

 

<はみ出し、踏み越え、泥をかぶる>

幼稚園の片づけの時間に、政治の世界で、私達の日常で、よく耳にし、私自身もつい使ってしまう言葉があります。「ぼくやってない。」「私は関係ない。」「私の責任ではない。」

確かに責任範囲は大切です。それが自分や相手を守ることにもなります。しかし、私の神学校の恩師たちの表現を借りればそれを自ら「はみ出し」「踏み越え」たところから、進んで「泥をかぶる」ところから、大切なものが生まれるのです。

 

<身代わりがもたらす癒し>

兄弟に売られ、人に裏切られ、エジプトの牢獄で2年間も忘れ去られていたヨセフ。しかし、神様はヨセフを忘れず、いつもいっしょにいてくださいました。やがて出世しエジプトの大臣になります。家族が与えられ、こどもが与えられ、マナセ(忘れさせる)とエフライム(繁栄させる)と名付けます。新しい地で、神の憐みを受け、過去の傷を忘れ、繁栄し幸せに暮らしました。

しかし、イスラエルで飢饉が起き、兄弟たちは食料を買いにエジプトへ。そして、大臣となったヨセフは、再び兄弟たちと対面します。しかし、ヨセフの心は恐れ、乱れます。神様は罪でバラバラになった人間たちに、創世記の最後にもう一度チャンスをくださったのです。

 

復讐して命を奪う気はない。しかし、心を許すことはできない。そこで細工をし、何度か彼らを試します。最後は、自分の弟(同じ母ラケルの子であり、ヨセフの実弟のベニヤミン)に盗みの罪を着せるふりをしてエジプトに置き、自分を売った兄たちを無事に国へと帰らせようとします。

しかし、ユダが、自分を売った兄が、自ら身代わりとなるというのです。かつて父を妬み、異母兄弟である弟(11男のヨセフ)を妬み売ったユダが、自分のかつての行為を悔い、異母兄弟の弟(12男のベニヤミン)を思いやり、自分の身を差し出すのです。

ヨセフはこらえることが出来ず、泣き、自分がヨセフであることを明かします。傷つき、凝り固まった、ヨセフの心を解きほぐしたもの、それは自分を売った首謀者であるユダの身代わりの姿でした。

 

キリストは言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ヨハネ15:13

ユダは、決して立派な人間でありません。家族もボロボロ、言動も無茶苦茶です。かつての行為を考えれば、このくらいは当然の罪滅ぼし(?)といえるかもしれません。しかし、このユダの身代わりの行為が、愚かで罪深いユダの示した精一杯の愛が、ヨセフの傷ついた心を癒し、一度はバラバラになった家族が回復するきっかけとなりました。一つの身代わりの行為は、大きな結果をもたらすのです。

そして、このユダの子孫として、ダビデ王が生まれ、そして本当の王様である、イエス・キリストが生まれます。そのキリストは、私達の身代わりとなり、十字架につかれました。

 

<理由など無い愛のはみ出し>

ユダの身代わりは、キリストの十字架を暗示するものですが、キリストの身代わりはより深い愛に基づいています。ユダは自分の行為の報いでもありますが、キリストに罪はありません。ユダが身代わりとなった相手は愛されるべき正しいものでしたが、キリストが身代わりとなった私達はキリストに敵対する者です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」には続きがあります。「わたしはあなたがたを友と呼びました。」ヨハネの福音書15:15今から自分を裏切り見捨てる弟子達に対して、友と呼び、祈り、自分の命を彼らのために捨てるのです。

 

今日読んでもらった箇所は聖書の良い知らせ、福音の神髄です。この愛はギリシャ語で「アガペー」という言葉が使われ、無条件の愛、にもかかわらずの愛、と説明されます。人間の側には、愛される側には一切愛されるべき理由がないのです。「弱」い者、「不敬虔な者」、「罪人」、神に反抗する者、無慈悲な者、高慢な者、そのような一人一人のために、身代わりに死なれたのです。良いことをした、反省した、立派である、それは人間側の理由です。そうではなく、まず十字架につかれた。先に身代わりとなられた。責任範囲をはみ出し、踏み越え、罪という泥をかぶる愛です。自分をののしり、あざ笑う者たちを前に、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34と十字架で祈られました。この祈りが自分のためだとわかる時、自分のために身代わりとなってくださったと知る時、わたしたちのうちにも、はみ出し、踏み越え、泥をかぶる愛が生まれていくのです。

 

創世記でカギとなる祝福という言葉。究極的には、相手の人が神と出会う、神をより深く関わって出会っていくことを意味します。ヨセフは、ユダの身代わりを通して、より深く神と出会いました。私達は、キリストの身代わりを通して、神と出会うのです。では、私達を通しては?

もちろん、私達は身代わりとして、命の全てを与えるという機会は生涯にないかもしれません。しかし、自分の命の一部を分け与えたり、身を削るように人に仕えたり、泥をかぶるように責任や労苦を引き受けたり、人の重荷をいっしょに担ったり、そのようにして、小さくいのちを分け与え、わずからながらも身代わりとなっていくのです。私達も、日々少しでも、はみ出し、踏み越えて行き、自分のものでない泥をかぶっていく、それは人を祝福することにつながるのです。

人からの祝福を必死で求める時、わたし達は人の呪いとなりがちです。しかし、人の呪いを引き受ける時、わたし達は本当の意味で人への祝福となるのです。

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