3月24日のメッセージ
2024年3月24日「キリストと出会う35」
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。 ヨハネの福音書
<ファミリータイム:十字架の意味>
みなさんは『十字架』を見て何をイメージしますか?教会、ミッションスクール、結婚式のチャペルなどに飾られていますから、愛、優しさ、清らかさ、安らぎ、神聖さなどかもしれません。
けれど、十字架は本来は死刑の道具です。死刑の中でも、一番の苦しみと恥を与える、最も恐れられ、忌み嫌われた刑でした。十字架は、死、苦しみ、呪い、汚れ、恥、恐怖、の象徴だったのです。ですから、十字架につけられることは、敗北や屈辱、失敗や絶望を意味しました。けれど、十字架につけられたキリストは「失敗した」とは言わずに、こう言ったのです。『完了した』と。この十字架のキリストの言葉が、本来の恐ろしい十字架の意味を、今日私達が感じるような、希望に満ちた美しいものに、変えたのです。
<神からの救いや恩寵を得るのに必要なことは?>
教会では、来週のイースター(復活祭)に洗礼式が予定されています。そのような素晴らしい時を前にして、今日のキリストの大切な言葉を、みなで心に刻みたいのです。
宗教は形は違えど、苦しみや困難といったものからの「救い」や、「天国」に代表される神からの恩寵を目指します。
多くの場合、そのためには、修行をしたり、善行を積んだり、知識を蓄えたり、悟りを開いたり、宗教の戒めを守ったり、などが求められます。(カルト的なものでは、多額のお布施をしたり、高価な品物を購入したり、先祖を供養したり、勧誘活動をしたりと、お金や時間、人生を、犠牲にすることを要求される場合もあり、注意が必要です。)
キリストの時代も、戒めを守ったり、知識や善行を積み上げたり、供え物を捧げたり、落ち度があれば動物の犠牲を身代わりにしたりすることで、良い自分であることで、神の恩寵を受ける、天国に入れられる、そう考えられていました。私たち側が何をするか、わたしたちがどうあるか、を見て私たちを判断する神として、犠牲を要求する存在として神を理解していたのです。
私達も洗礼を受けるためには、(すでに受けた人は、例えば神の愛や慈しみを受けるためには)、正しい心や、汚れない生活、十分な知識や、良い行い、敬虔な信仰心、そういったものがなくてはと、考えていませんか。ところが違うのです。神は、判断し、要求する神ではないのです。もしそうであるならば、十字架は要らないのです。
<私たちが何をするかではなく、キリストが何をしたか>
キリストの十字架の上での最後の言葉は「完了した」でした。「成し遂げられた」とも訳されます。恐ろしい十字架刑は失敗した結果ではなく、目的の完了でした。キリストの願いはこの十字架で成し遂げられ、達成されたのです。
聖書は、キリストの十字架の意味をこのように語ります。
「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45
(「贖い」Redemptionとは、犠牲を払って大切なものを取り戻すこと、捕らわれていたものを解放すること、を意味します。)
「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」コロサイ2:14
私たちが贖われる(救われる)ために必要なものは、キリストが全て差し出したのです。私たちを責め立て、神との間を妨げるものは、キリストが十字架で全て背負ったのです。私たちがなにかするのではないのです。神が、キリストが、すでにしてくださったのです。
私達は、心が純粋で清らかではないかもしれません、過去・現在・そして未来において取り返しのつかない失敗や過ちがあるかもしれません、宗教的に言えば罪や汚れもあるのでしょう、深い信仰心や理解・悟りからも程遠いのです。私はこれをしましたと、神に差し出し、天国の門を堂々と通ることができるような功績も善行ももっていません。
けれど聖書の中で、キリストがそのような人々を責めたでしょうか?そのような人々に何かを要求したでしょうか?(キリストが責めたのは、自己義認する高慢な宗教家です。)キリストは、何も持っていない、何も差し出せない、汚れている、罪深いと責められた人に寄り添いました。そのままで、彼らを尊び愛しました。そして、彼らを責めるものを十字架で背負い、彼らが神の恩寵を受けるのに必要なものはキリストが、神ご自身が差し出したのです。
ですから、どうか、安心して礼拝に来てください、安心して祈ってください、安心して洗礼を受けてください。「完了した」には、支払いが終わった、という意味もあるのです。必要も、責めも感じる必要はないのです。神の愛と慈しみは、私たちが何をするか、どうあるかで、勝ち取るのではないのです。すでに、一方的に与えられているのです。それを恵み、というのです。愛は、慈しみは、救いは、天国は、すべて恵みなのです。
この恵みにより、恐ろしい、私たちを責め立てる十字架は、愛や慈しみの象徴へと変わったのです。
<順序の大切さ>
教会は歴史には『異端』と呼ばれる、間違った教えがありました。異端とは、神様やキリストを否定することではありません。十字架に何かを付け加えることです。
十字架プラス・・・決まりを守ること、宗教的地位、豊富な知識、特別な体験、心の確信、熱心な奉仕、(他宗教では、先祖供養、修行)などなど・・・十字架では不十分とするのです。そのほうが、達成感も、満足度もあるでしょう。けれど、キリストは言いました。「完了した」と。
もっと何かをしたから、さらに何かを身につけたら、より理解が深まったら・・・神に愛される、救われる、救いにふさわしくなる、と考えていませんか?新しく生きることは良いことです。変わること、知ること、成し遂げること、は素晴らしいとです。けれど、順番を間違えないでください。私たちは、新しく生きたから救われるのではありません。すでに救われたから、新しく生きるのです。
イエスは、賢い人や立派な人の横へ行って「完了した」、とは言いませんでした。私達の涙や、成長、善行を見て、「完了した」とも言いませんでした。十字架の時、弟子達はイエスを愛するどころか、逃げ出しましました。宗教家は、反省するどころか勝ち誇りあざ笑っています。イエスはそんな人々を見ながら、十字架の上で、たった一人で言われたのです。「完了した。」と。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物とし
ての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4:10
私たちはこれから愛される者ではありません。すでに、キリストの十字架によって、愛された者なのです。
他の宗教は「完了」を目指しますが、キリスト教は「完了」から始まるのです。ある時イエス様の食卓にマタイと言う罪人が招かれました。そして、まず愛され神の子となりました。罪人マタイは、他の罪人をイエス様の食卓に招くようになりました。イエス様によってお腹だけでなく心を満たされたマタイは、今度は他の人に糧を配る、12弟子になりました。神の「完了」は自己完結とは違う、古い自分のままで、自分の中だけで、とどまるようなものではないのです。
私たちは、すでに愛された、すでに救われた、すでに天の父なる神の子とされたのだと、「完了」を覚えます。すると、私達も自己満足では終われません。内側がよりキリストに似るように願い、外側にも受けた恵みが溢れ流れるように願い、心と身体が動き出します。神の「完了」は、神と歩む日々の始まりなのです。