毎日の聖書3月18日〜
おざく台教会毎日の聖書 3月18日~
1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
3月18日(月)ルカの福音書9章
23節「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」
私達がいつもそばにいたい、何かを捨てでもついて行きたいと思うのは、単なる立派な人物や優れた思想家ではなく「神の子キリスト」です。命を懸けてついて行くべき存在に、私達は出会うことができたのです。
3月19日(火)ルカの福音書10章
20節「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
私達は地上の出来事を喜び祝い、神に感謝します。しかし、究極的な喜びと慰めは、神に知られ、愛され、覚えられていることです。心に喜びがない時、それを思い返してみてください。
3月20日(水)ルカの福音書11章
9〜10節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
ギリシャ語では、継続の意味が込められていて、より原意に近く訳すならば、『求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい。』となります。祈りは、祈り続けること、願い求めは、願い求め続けることが大切なのです。短くても、少しでも、課題を決めて毎日祈り続けてください。
3月21日(木)ルカの福音書12章
30〜31節「あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えられて与えられます。」
神の国とは、余裕がある時、気の向いた時、状況が整った時求めるのでなく、何はともあれ(他の事はどうあろうとも)求めるべきとても大切なものです。心が満たされず、あれこれ求めてはいませんか?そんな時は、神の国を優先順位の一番にしてみてください。安心してください、私たちに必要をご存知の天の父は、私たちに必要なものもちゃんと与えてくださるのですから。
3月22日(金)ルカの福音書13章
30節 「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです」
聖書の神様は“偏愛の神”とも言われます。人間が軽んじ、目に留めず、価値を見いださない者に目を向け、ことさらに尊び、愛されるからです。
自分は大切にされていない、自分には光が当たらない、そう感じる時もあるかもしれません。そんな時こそ、このキリストの言葉を思い返してください。
3月23日(土)ルカの福音書14章
4〜5節「しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。 それから、彼らに言われた。『自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。』」
ルール、前例、伝統、それらはとても良いものです。けれど、眼の前に苦しんでいる人、必要を抱えた人がいるのに、決まり事を理由に手を差し伸ばさないキリストではないのです。キリストの動機はいつも愛なのです。
迷ったことがあれば、愛と憐れみに満ちたイエス様ならどうなさるか、考えてみてください。私たちの最高法規は、イエス・キリストの愛に満ちた言動なのです。
3月24日(日)ルカの福音15章
7節 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
私達が信じて、神のもとに帰ったとき、天で大宴会が開かれました。私たちの存在は神の喜びなのです。迷い出やすい私達ですが、日々の小さな悔い改めもまた、天において大きな喜びです。