2月25日のメッセージ
2024年2月25日「キリストと出会う31」ヨハネの福音書13章
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
<へりくだりの愛>
現在、教会はイースター(復活祭)に向けたレント(受難節)の期間、心を落ち着かせキリストに、目を向ける、そのような時期です。ヨハネの福音書には、他の3つの福音書には記されていない出来事がたくさん含まれていますが、最後の晩餐のこの出来事もその一つで、この木曜日は『洗足の木曜日』とも言われます。
この場面で、イエス様は、ペテロを始め、弟子たちの、足を洗います。客人や主人の足を洗う、それは当時、身分の低い存在、しもべや女性などの役割でした。足を洗うということは、相手への敬意をあらわすことであり、自分は相手よりも低い立場にあることをも意味します。
けれど、イエスは、弟子たちの、そしてこの後自分を裏切るユダの足までも洗ったのです。それは、1節「過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」のです。
わたし達の神は、愛の神です。そして、神の愛の表れの一つが、しへりくだり、です。(原語のギリシャ語でも、謙遜は、へりくだりは、低くなる、ことを意味します。)愛とは、高いところからは表すものではないのです。本当の愛とは低いところからしか表せない、とさえ言えます。
(もちろん、出世や向上、成長はとても大切です。能力や品性はぜひ向上を目指してほしい。けれど、魂までが高慢になってはいけないのです。アンドリュー・マーレーが「謙遜」という本で、アダムとエバ以来、罪の源とは「高慢」だと指摘しています。自分が神のようになろうとする、自分が神のように判断すること、神より自分を重んじること、これは、周囲の人を損なうことへと、愛とは正反対への道へとつながるのです。自分を含め思うのですが、他者を損なう人で、謙遜な人、謙遜な心の状態である人を、見たことがありません。)
人が、高慢になる一方で、キリストは謙遜にへりくだりました。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2章6〜8節)
キリストは、わたし達に愛を表すために、「立ち上がって、上着を脱」(4節)いだのです。天から
離れられないとは、神のあり方を棄てられないとは考えなかったのです。 私たちの神とは、天から見下ろし、恵みを降らせる神ではなく、自ら天から降る神です。私たちの隣にこられた、いえ、私たちより低いところから、足を洗い、私たちを大切な存在だと表してくださった。私たちが信じるのは「心優しく、へりくだっている」(マタイ11:29)愛の神です。
<神と人との関係>
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
足を洗うイエスをペテロは慌てて拒みます。けれど、イエスは言うのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
神と人との関係とは、人が神に仕える関係ではないのです。神が人に仕える関係なのです。
宗教とは、人が神に何をするかだと、思い込んでいませんか?それなら、キリストは「あなたはわたしと何の関係もありません。」と言うでしょう。神が人に仕え、キリストがわたし達のために犠牲を払うのです。これがキリスト教の神と人との関係です。
しもべとしてへりくだり、足を洗いきよめる、これは翌日に迫った十字架を思い起こさせます。キリストが私のために仕える、十字架にかかったのを受け止めること、それほどまでに、神が私たちを尊んでいることを受け入れること、これがキリスト教の信仰なのです。
<謙遜に、人を尊ぶ>
14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。・・・34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
イエスはこのように続けました。謙遜とは、価値がない、何も出来ない、といった自己卑下と全くは違います。イエスはわたし達に、イエスがしてくださったように、へりくだり、人を尊ぶことが期待されています。
これは私が大切にしている(つもりの)ことなのですが、教会ではどのような人にも、上から接してはなりません。相手は、イエスが足を洗った人であることを、十字架でその方のために死なれ人であることを、決して忘れてはならないのです。立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを手にして、足を洗ったイエス様の心と姿勢で向き合ってください。
そして、マーレーが記したように、『人を最も謙遜にさせるのは、罪ではなく恩寵』なのです。神の恵みを知るからこそ、わたし達は人にも恵み深くあれるのです。そして、本当の恵みとは上から降ってくるものではなく、下から差し出されるものなのです。