12月3日のメッセージ
「今は、あけぼの」聖書箇所 ルカ1章5ー25節、78節 井本香織・神学性
はじめに・・・神様は、本当にこの世界を覚えていてくださっているのだろうか?
今日のイスラエル、パレスチナの問題、ロシア、ウクラウナの問題。世界にもさまざまな問題とその影響があります。私たちは今年のニュースを見るときに、本当に神様は、この世界を覚えてくださっているのだろうか?と思うようなことがあるのではないでしょうか。今日は、みなさんと共に「神様が、私たちを覚えてくださっている」ということを味わいたいと思います。
1、神様は、私たちのことを覚えていてくださる。
ザカリアという名前は、「主は覚えていてくださっている。」という意味です。
ザカリアとエリサベツという年をとった夫婦は、「神様、私たちはローマ帝国から支配されて苦しんでいます。どうか約束されている救い主を送ってください。」といつも心から祈っていました。
もう一つ、彼らが若い頃、願っていたことは、「神様、子どもを与えてください。」ということでした。しかし、年を重ねて、もう子どもが授かるという望みは消えていました。彼らは、期待を持ちつつも、「本当に、神様は私たちのことを、覚えていてくださっているのだろうか?」と思っていた人たちでした。
ルカ1章13節:御使いは彼に行った。「こわがることはない。ザカリア。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」
でもザカリアは、その時は、恐がって、信じることができませんでした。
わたしたちも、「神様のことを信じてはいるのだけれど、本当に神様は私たちのことを、そしてこの世界のことを覚えていてくださっているのだろうか?」と思うことはないでしょうか。生活、健康、将来の不安、世界の問題、物価は高くなり経済の不安もあります。恐れの中にあって、私たちは「本当に神様は覚えてくださっているのだろうか?」という疑いと、「神様が自分のことも、この世界のことも覚えていてくださっている。」という思いを行ったり来たりするのではないでしょうか。しかし、疑いと信頼を行ったり来たりする私たちのことを、神様はよくわかっていてくださいます。
ルカ1章19節:御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
20節:ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
ザカリアは天使ガブリエルのことばを信じることができなかったために、話すことができなくなりました。筆談で人とやり取りをするようになりましたが、今まで自然にしていた生活を思うようにすることができなくなり、本当に辛かったと思います。これは神様からの罰なのでしょうか?
いえ、そうではなく、不自由で、人とコミュニケーションが今までのように自由には取れなくなる静けさの中で、神様のことを思い巡らすようにと、特別に配慮された時間だったのではないでしょうか。このときのザカリアにとって、本当に必要なことは、自分達とこの世界とを忘れずに覚えてくださっている神様と静かに心を合わせる時間だったのではないかと思うのです。
沈黙の期間に、年をとって、もう子どもが産めない年齢になっていたエリサベツのお腹が大きくなっていきます。お腹には赤ちゃんがいるのです。ザカリアは、神様が、確かに自分達のことを覚えてくださっていることを、思い巡らしていたはずです。生まれてくる赤ちゃんは、バプテスマのヨハネとなりました。イエス様が救い主であると皆に伝える役割を果たした人です。
2、夜明けは来るーイエス様は、もう一度帰って来られる
子どもが無事に生まれた時、ザカリアは、喋ることができるようになりました。そして神様を讃美します。
ルカ1章78節「そのあわれみにより、曙(あけぼの)の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
「あけぼの」は、「夜明け。 夜がほのぼのと明け始める頃」という意味です。「ぼの」は「ほのぼの」という語から来ています。 転じて「新しい時代が始まったり、新しく事態が展開しようとする時」という意味でも使われます。今は暗くとも、神様がこの世界を照らす光であるイエス様を送ってくださったことが語られています。。
10月から11月の間、日の出の1時間くらい前に、暗い中でも、東の空にひときわ輝く星があります。明けの明星と呼ばれている金星です。2000年前に生まれてきて十字架にかかり、復活したイエス様は、夜明けを告げ知らせる金星にたとえられています。(黙示録22章16節)夜明け前に、ひときわ輝く金星は、もうすぐ夜明けが来ることのしるしです。
そして、朝日が昇って夜が明けることはイエス様がもう一度この地上に戻ってこられることに重ねられているのです。イエス様がもう一度この世界に戻ってこられる時、圧倒的なまぶしさで、暗闇、死の陰は光に照らされます。私たちは、あたりはまだ薄暗いけれども、明けの明星がすでに輝いていて、東の空が白み始め「さぁ太陽が、もうすぐ昇ってくるよ!」そのような、あけぼのの時代に生きているのです。
朝方のまだ、うす暗い時、つまり、今この時、私たちは、戦争やさまざまなこの世界の暗闇を見て、またときには自分の状況を見て、恐れと不安に駆られます。「神様は覚えてくださっているのだろうか。」と疑います。
ある人たちは、夜明けなんてどうせ来ない、あきらめていたり、気づかなかったりして寝ています。もしくは、暗闇の中で、夜明けが来ることも知らず、目の前のことを必死でこなしているかもしれません。それとも、神様なんか頼りにはならない。いつかは消えてしまう、まやかしの灯りを握りしめて、これさえあれば自分達だけはなんとか大丈夫だろう、と思っているかもしれません。
ザカリアとエリサベツの時代にも、「もう神様は私たちのことなんか覚えていていてはくださらない。」と言って、ローマ帝国から与えられていた権力、収入、立場を握り締め過ぎている人もいました。今がよければいい、自分達が楽しめればそれでいいという生活をしている人もいました。社会の中で見捨てられた人、恐れや欲、しいたげと差別、そのような暗闇の中で必死に生きている人たちもいました。
しかし、ときには疑いつつも、神様が覚えてくださっていることを信じ続けていたザカリアとエリサベツに、神様はよくしてくださいました。子どもが与えられたいという願いを叶え、生まれた子どもは、救い主がこの地上に来られたことを、人々に告げ知らせる者となったのです。
私たちは、夜明けを知らせる金星が輝き、暗闇の中でも、だんだんと東の空が明るくなってくるのを見る時、朝が来ることがわかるように、地上に来られたイエス様を見る時、神様が、この世界を忘れたり、放っておかれているのでは、決してないことに気がつきます。夜明けを告げ知らせるイエス様が、すでに私たちのところに来てくださったのです。恐れるとき、いつでもイエス様を思い浮かべることができます。
先週、洗礼式で〇〇さんが好きな讃美歌を歌いました。「旧讃美歌453番 聞けや愛の言葉を」の繰り返しの部分は、このような歌詞です。「やがて時は来たらん 神のみ光の あまねく世を照らす あしたは来らん」 イエス様は、やがてまた来られて、争いも、涙も、苦しみも、恐れもない世界を私たちに与えようとしておられます。
3、アドベントのもう一つの意味
教会はアドベントを迎えました。救い主が生まれてくることを待ち望んでいた聖書の時代の人たちと同じ心で、待ち望む期間です。アドベントには、もう一つの意味があります。それは、イエス様がもう一度この地上に戻ってこられることを待ち望むという意味です。朝早く起きて、もうすぐ夜明けが来ることを待ち望む人たちのように、アドベントを過ごすとき、私たちは、暗闇への恐れに飲み込まれず、希望を持って生きることができるのではないでしょうか。
結論:神様は皆さんを、この世界を覚えてくださっています!イエス様がもう一度戻って来られるのですから。希望を持って共に生きたいと願います。