11月12日のメッセージ

2023年11月12日「キリストと出会う27」(召天者記念礼拝)

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 25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

 

43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

<昇天者記念礼拝の解説>

今日は召天者記念礼拝です。教会は、先に亡くなった(天に召された)人たちを覚え、11月の1日を「諸聖人の日」と定め記念してきました。新約聖書へブル書11章では、信仰の先人たちを一人一人挙げ、彼らに倣うようにと、生きている者たちを励まします。初代教会では迫害によって火あぶりにされても、闘技場で猛獣の餌食とされても、どれだけ不自由や苦しみの中にあっても、キリストに希望を置き続けた人々を記念してきました。 今日は、礼拝の最初で名前を挙げさせていただきましたが、そのお一人お一人からも、生涯を通してキリストに出会っていた姿、不自由さや苦しみの中でもキリストを手放さなかった姿を通し、私たちは励まされ、勇気づけられています。

<誰もが向き合う死>

今日の聖書の場面は死の場面、愛する者の早すぎる死を悼み、人々が泣いている場面です。皆さんは死と聞いて、どのように感じますか?死をどのように捉えておられますか?身近に差し迫った自分事や周囲の大切な方の事として、恐れや不安を呼び起こすものとして感じる方もいれば、まだ遠い先のことで、実感が湧かない方もいるでしょう。

私たちは、中東ガザ地区の方々のように、今日が最後の日かと恐れて暮らしたり、毎日誰かの死に触れて涙を流すような状況にはいません。医療も、衛生・栄養状態も、古代とは比べものにならないほど改善し、はるかに長寿となりました。生きていくだけで精一杯だった時代に比べ、幸せや満足も多いでしょう。けれど、どれだけ長寿でも、満ち足りた生涯でも、死はやはり恐ろしく、別れは悲しいのです。ましてや、まだ若かったり、あまりにも突然であったり、苦労や失望ばかりの生涯を経て死を迎えた場合、(死がすべての終わりならば)、いたたまれない思いになります。

 

ミッションスクールの礼拝では、いかに生きるかを、未来ある若者たちに話します。けれど、私たちも、私達の大切な人もいつかは誰もが、死を迎えます。そして、死をどう捉えるかによって、私達の今の生き方もまた、変わってくるのです。みなさんは死をどう捉えていますか?

<死が全ての終わりならば・・・>

個人的な話をさせていただけば、私にとって死は身近で、恐ろしいものでした。小学生の時に幼児癌の可能性があると診断され、すぐに入院しました。手術室に運ばれながら、怖い、死にたくないと強く思いました。幸い、腫瘍は悪性ではなかったのですが、それ以来、怖くて眠れなくなる日がありました。 そこで大人に尋ねたのです。「人は死んだらどうなるの?」返ってきた答えは、「人は死んだら終わりだよ。だから精一杯生きるんだよ。」でした。とても良い答えだと思います。限られた一生を懸命に生きよう、と決心できる人もいるでしょう。

 

けれど、死がすべての終わりで、その後は自分が消えてしまう、私の場合は、そう考えると、震えるほど恐ろしくなりました。せめて少しでも長く、少しでも得をして、人よりも少しでも良い思いを、と言った具合に、自分のことだけしか考えられなくなりました。死んで葬られ、手足が布で巻きつけられていたラザロのように、恐れや不安で縛られ、がんじがらめになっていました。

 

当時の私は幼く、また人間も小さかったので、そのような考えしかできなかったのですが、やはり、もし死がすべての終わりならば、なんの落ち度もなく生命を奪われたガザの子ども達は、短い生涯しか生きることが出来なかった幼子たちは、苦労や悲しみばかりの生涯を送った方々は、浮かばれません。

<死の先の希望に生かされる>

だからこそ、高校生で聖書をもらい、大学生でこの箇所を読んだ時、救われた思いがしました。キリストは、死と喪失の中で、失望し、泣く者たちに言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(25〜26節)

 

キリスト教では、死が全てではないのです。すべての人を恐れさせる死の、その先があるのです。そして、キリストは、ラザロに死んで何日もたったラザロに言いました。

 

イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』(43〜44節)

 

死んで全ては終わったはずのラザロに、それで終わりではない、その先を生きよと言うのです。この場合は一時的な蘇生ではありますが、このラザロの出来事を通して、永遠の命への復活(よみがえり)を、死のその先ののいのちを示したのです。

 

そして、もう一つ大切なこと、キリストは「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と語りました。イエスにこそ、死の先のいのちがあるのです。私たちを弄ぶような運命でも、金銭を要求するどこかの宗教団体の教祖様でもないのです。死の先のいのちを握っているのは、恵みと哀れみに富むキリストなのです。ガザで命を落とした子ども達、2ヶ月だけ地上を歩んだ子どもも、いのちを握っている憐れみ深い方が、見捨てず、見放さず、放おっておかず、必ず良くしてくださるのです。

 

死が終わりではない、その先のいのちがあり、そのいのちは良い方が握っていている、この安心感は今を生きる私たちにとって大切なのです。

 

牧師とし、死を迎える方や、大切なその方を天に送る方々、の隣に立ち会わせていただくことがあります。どれだけ幸いに生きても、死は恐ろしいのです。別れは悲しいのです。ましてや、辛いこと、不自由なことが多かった方の場合は、様々な感情が込み上げてきます。

そのような思いは、隠さなくて良いのです。悲しいことは悲しい、恐いことは恐い、辛いことは辛いのです。

けれど、その方々は、悲しみと同時に希望を持っておられました。、恐れと同時に平安を 抱いておられました。辛いのと同時に、幸いをも感じておられました。

 

恐れ震えてもいいのに、自分の悲運を嘆き叫んでもいいのに、(そういう瞬間もあったとは思いますが)、それらに満たされることなく、キリストに信頼し、希望を、平安をも同時に持っていました。苦しいのに笑みを見せてくれたり、苦労が多くても感謝を口にしたり、自分で精一杯でもいいのに、こちらのことまで気遣ってくださった。恐れの中でも、しなやかさと、思いやりを持って生きておられたのです。 ああ、このような生き方があるのだ、と驚かされ。これが希望に生かされることなのだと、あらためて感じました。

 

キリストが必ず良くしてくださるから、死がもたらす恐れに縛られなくても良いのです。墓に葬られ、布でがんじがらめになったラザロへの言葉は、『ラザロよ、出てきなさい。』『ほどいてやって帰らせなさい。』いう言葉は、今まだ生きていても、死への恐れや不安でがんんじがらめになっている私たちにもまた、必要な言葉かもしれません。
地に足をつけつつも、天の希望に生かされて、恐れや損得に縛られずに、しなやかに生きることができるのです。

 

そして、やがての日に、私たちは、それぞれの名を呼ばれ、「出てきなさい」と、墓の中から、死の中から、呼び出されるのです。その希望が、私達の毎日を生かしますように。

 

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