10月29日のメッセージ

202310月29日「キリストと出会う25」 

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10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11 わたしは、良い牧者です良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです。13 それは、彼が雇い人であっても、羊のことを心にかけていないからです。14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいませんわたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしは、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

 

 

<今日も必要な宗教改革>

 先日、旧統一教会に、解散命令請求が出されました。純粋な人たちの信仰心を利用し、彼らの金銭や生活を犠牲にして私腹を肥やした指導者達がいたのです。

 中東パレスチナでは、宗教の名のもとに、戦争状態にあり、人道危機が問題となっています。一方は宗教の名のもとに過去の侵略や現在の抑圧と攻撃を正当化します、一方は殉教により天国での報いを説き、テロ行為へと駆り立てます。その結果、多くの生命や生活が破壊され、失われています

 

 宗教は本来、私たちを生かし、心を慰め、人生を豊かなものにするはずです。けれど、その宗教を歪め、純粋な人々の信仰心を悪用する指導者がいるのです。

 (本来の姿を失いカルト化したと判断される基準がNHKで紹介されていました。恐怖、束縛、搾取、の3つです。「恐怖」で人々の心や行動をコントロールすること、様々な規則で人々の生活や人生を「束縛」すること、人々から金銭や時間や労力を「搾取」すること、です。カルト化した宗教では、様々な犠牲を神に(団体や指導者に?)差し出すようにと、強いるのです。)

 

 もうすぐ10月31日「宗教改革記念日」です。それは500年前の中世に起こった運動ですが、この時代にも宗教改革が必要だと感じます。改革と言っても、宗教改革とは、制度や仕組みを変えることではありませんでした。神様がどれだけ善い方かを思い出すことです。

 だから今日の箇所を大切にしたいのです。イエス様は、自分を「わたしは良い牧者です。」(11節)「善い羊飼い」と紹介しました。(羊を食い物にする強盗や、無責任に羊を放り出す雇い人とは、つまりは当時や今日の宗教指導者と対比されています)

 

<善い羊飼い>

 聖書は、神様を羊飼いに、私たちを羊に例えます。先週は、羊飼いは、一匹一匹に名をつけ、その名を呼び、養うということを紹介しました。詩篇23篇では、羊飼いが羊を導き守る様子が歌われています。ルカ15章では、1匹が迷子になれば、他の99匹を残して、探し求める羊飼いに神を例えています。神は私たち羊を愛し、慈しむ良い羊飼いです。けれど、今日の箇所は、それ以上です。

 

 11節でイエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言うのです。比喩ではないのです。文字通りなのです。この後、何度も、何度も、いのちを捨てる、と繰り返し、十字架へと向かうのです。

 

 歪んだ宗教は、偽りの神々は、犠牲を求めます。私達が神のために、行動、知識、財産、時間、労力、家族、人生、いのちを犠牲にすることで、報いが約束されます。けれど、キリストは違うのです。

 羊が羊飼いのために、ではないのです。牧者が羊のためにいのちを捨てる、という、これがキリスト教の中心です。

 

 私たちが犠牲を払ったり、私達の家族が犠牲になるのではないのです。キリストが、神が、犠牲を払い、私たちのために犠牲になるのです。

 私たちが神のために、時間も、お金も、人生も、生命も投げ出すのではないのです。神が、キリストが私たちのために、いのちを、すべてを投げ出すのです。

 聖書はいつも神から人への方向なのです。 人が天に登るのではなく、天が地に、十字架にまで下ってくるのです。人が神になるのでもない、神が人となり、十字架にかかるのです

 

<犠牲の羊となったキリスト

 私達の側のなにかでなく、羊飼いの投げ出したいのちが、十字架が私たちを救うのです。不思議なことに、善い羊飼いであるイエス様は、羊にも例えられます。ただの羊ではありません。

 

 ヨハネの福音書の冒頭、洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と、イエスを指して、神殿祭儀で人々の罪を身代わりに背負い殺される犠牲の小羊だと言いました。

 

 預言者イザヤはやがてくる救い主キリストについて、「53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ書53章)と預言しました。

 

 神が、キリストが、私達と同じ羊に例えられています。いえ、私たちのように守られ養われる羊ではありません。苦しめられ、殺される、生贄の小羊です。

 キリストは迷いやすい私たちを導き守る羊飼いだけでなく、私達の罪を身代わりに背負い犠牲となる小羊になったというのです

 

「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2章6〜8節)

 

 私達の羊飼いは、私たちを守り、迷っても追い求め、自分自身が羊となり身代わりとなるような、善い羊飼いです。私達の神様は、文字通り、私達のために生命を投げ出す方です。

 

 私達は神様を、間違って捉えてはいませんか?はるか遠くへだたった神、私達に関心のない冷たい神、罰を与える恐ろしい神、犠牲を要求する交換条件の神・・・誤った神観が溢れているからこそ、500年前だけでなく今にも、恵みの神様を思い出す宗教改革が必要なのです。 

 

 どうか忘れないでください。私たちの神は、羊のために、自らも羊となり、しかも犠牲の羊となる善い羊飼いです。私たちはこのような方に愛されているのです。

 

 どうか善いことをしてください、知識も蓄えてください。善い人であってください。支援の必要な方々のために、お金や時間を犠牲にすることは素晴らしいことです。けれど、それは神に愛されるた

めではありません。自分を先に愛してくださる善い羊飼いへの応答です。

 聖書とは、福音とは、あなたが神に何をするかではなく、神があなたに何をしてくださったか、なのです。 

 

 あなたを愛し、養い、探し出し、あなたのためにいのちまで捨てた善い羊飼いが、新しい週も、あたなと共にいてくださいます。

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