10月1日のメッセージ

202310月1日「キリストと出会う㉒」  

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9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。  

 

 

<あなたの神様のイメージは?> 

 お祈りの時に、『恵みの神様』とつい口に出てしまいます。それは以前いた教会の牧師からの良い影響だと思います。その教会では、大きな幼稚園が付属していて、お祈りの最初の言葉から、神様が優しい方だと、子ども達に知ってほしかったそうです。 

 一言で「神様」と言っても、それぞれの頭に描く神様は異なっています。地域や社会から教え聞かされていた事柄もあるでしょう。父親のイメージからも影響を受けると言われています。様々な教会で、強調されてきたことが違います。聖書も、強調の仕方によって、なんとでも読めてしまいます。冷たい神様とも、あたたかな神様とも、遠くへだたった方とも、近しい方とも読めるのです。 

 

 その牧師さんはいつも言っていました。私達の頭には古い物語(神観、信仰観、人生観)があります。それをイエス様の物語、イエス様の神観へと変えられていくことが大切ですよ。その牧師が翻訳した本に、『エクササイズ~生活の中で神を知る~』という本があり、原題がとても良いのです。『The good and beautiful God ~Falling in Love with the God Jesus knows~』(善い、麗しい神様~イエス様の知っていた神様と恋に落ちる~)イエスが知っていた神様と恋に落ちる、素敵な表現ですね。 

 

<ユダヤ人が教わってきた神様> 

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 

 

 なぜ、弟子たちはこんな冷酷なことを言うのでしょう?暴力とさえも言える言葉です。視覚からの情報が閉ざされ、聴覚が頼りの人にとってどれだけ人格や尊厳を傷つけられる言葉でしょうか。 

 このようなことを平気で言える社会はどれだけ狂っているのでしょうか。けれどこれが当時の共通理解でした。病、障碍、貧困、事故、災害などは、罪に対する神からの罰だと、神は人の罪や落ち度を罰しようと見張っている神だと教えられていたのです。 

 旧約聖書のヨブ記には、悲劇が降りかかり絶望するヨブに、3人の友人が訪れ「あなたには隠された罪があるに違いない」と迫る場面があります。彼らの神は、帳簿を手に、事細かに人の罪を指摘し罰する、因果応報の神でした。正しく歩まなければ、罪があれば、悪いことが起きるよ。神はあなたを裁き、罰して苦しめ、地獄に落とすよ。彼らは、そう脅され、育ってきたのです。 (逆に豊かさ、健康、能力や魅力などは、正しさゆえの神からの祝福であり、神は正しいものだけを救う、そう教えられてきたのです。) 

 

 (聖書を開けば、ごく少ない例ですが、神様が、人の歩みを変えさせようと病を与えること、人の悪事に対して罰のように報いる事例も出てきます。確かに、悪事に無関心な神がいたら、それは愛と正義の神とは言えないでしょう。一方で、神が悪に報いるのは、ごくごく少数なのです。むしろ詩篇の作者達は、なぜ悪が栄えるのかと、神に訴えています。そのごく少数の例を、一事が万事のようにして、不幸や問題を罪と結びつけ、痛みを抱える人に神の呪いを宣言していたのです。) 

 

 

 みなさんは、病は、障碍は、問題は、悲しみは、あなたが幸せでないのは、罪のせいだ、神の罰だ、と教えられたことはないでしょうか?そこまで露骨ではなくても、問題や悲しみを抱えた自分は、神に愛されていない、大切にされていない、そう考えたことはないでしょうか?そして、そのような神をあなたは愛するでしょうか?一緒に歩みたいでしょうか? 

  

<イエスの知っていた神様> 

 

 けれどイエスは言うのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」(3節) 

 イエスは病も、苦しみも、災害も、神からの罰と安易に単純化して決めつかえるような愚かな考えを強く拒まれました。(ルカ13:1〜5) 

 そして、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」  

 

 イエス様が世の光だと、様々な価値観が渦巻く、暗く迷った世界の指針だと言うのです。わたしのすることが、神の業であり、神の心、人の光だと言うのです。 

 

 1節から振り返りたいのですが、『イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。』のです。気にもとめないのではなく、見下すのでなく、しっかりと目を留められたのです。 

 この人は、ユダヤ人が神からの祝福の条件と考えていた、善行や宗教行為も何も行っていません。ただただ、一方的に目を留められ癒やされたのです。 

  

 そして、イエスはこの人の耳に響く言葉で、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』(3節)と言われました。彼にとって呪いとなっていた古い物語をはっきりと否定したのです。『あなたのせいではない、両親も悪くない。神はあなたを呪っているのでなく、神はあなたに心と手を向けられるのだ、あなたは愛されているのだ。』そう語ったのです。 

 

 そして6節です。『地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って』 当時の宗教の指針(タルムード)には、つばを吐いて作った泥を目に塗って人を癒やしてはならない、というものがありました。異教の文化を真似るな、そんな意味があったそうです。けれどイエスは、あえてそれを行います。あなたを苦しめ、傷つけた呪いのような言い伝えにこれ以上縛られるな、というメッセージのようです。 

 

 そして7節「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」 

もちろんその場で、別の方法で癒やすことも出来たでしょう。けれど、あなたは罪人でも、無価値なものでもなく、神に応えることのできる素晴らしい存在だ、そう励ますかのようにチャレンジをします。彼を信頼している証です。 

 

 世の光である方の、この盲人との関わりは、この癒やしの出来事は、神がこの人を、気にかけておられること、愛しておられることを、はっきりと示しました。神は、善行者には祝福で、立派でないものには呪いで報いる方ではない。私たちを見張り、怒り、罰する神ではないのです。ただただ、どんな人にも、憐み深く、慈しみ深い、良いお方であることを、世の光であるイエスは身をもって現したのです。 

「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。・・・御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、」(ヘブル1章2〜3節) 

 

 2023年度のおざく台教会のテーマであるわたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)というのは、イエスの言動こそが、イエスの知っていた憐れみ深い神こそが、私達の心を照らし、温め、迷いから抜け出させてくださる、という意味でもあるのです。 

 

 皆さんは、今まで周囲から、(時に教会から)様々な言葉を浴びせられた経験から、自分には意味や価値があるのだろうか、とか、問題や失敗を抱えた自分は神に愛されないのではないか、見捨てられるのではないか、そう考える時はないでしょうか?

 けれど、私たちが自分を測る物差しは、イエス様の言動です。そして、イエス様の目に、あなたは大切で、尊く、素晴らしい存在です。 

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