9月24日のメッセージ

2023年9月24日「キリストと出会う㉑」

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30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。 31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です

 

<自由なイエス>

 国立国会図書館には、今日の聖書の言葉「真理はあなた方を自由にします。」(ヨハネ8:32)が刻まれています。自由とは何でしょう?選択の自由など、行動や意思決定に制限がないこと、また、ネガティブな意味で、無責任、身勝手、自己中心、にも用いられます。

 

 この『自由』(ギリシャ語エレウセロス)という言葉は、奴隷でない、とか、拘束されていない、という意味の強い言葉です。ですからイエスの言った「真理はあなたがたを自由にします。」とは、「あなたは奴隷である、束縛されている。」という意味でもあり、ユダヤ人はカチンときて、33節のような反応をしたのです。

 

<不自由な宗教>

 ユダヤ人にとって、「私たちは神を知っている。真理を握っている。私たちは正しい。」それが誇りでした。「(政治的にはローマ属国として苦境にあるが)私たちは思想的にも、人格的にも、霊的にも、何ものにも束縛されず自由で、優れた、誇り高い、選ばれた存在である」そう自負していました。そして、神は戒めを守る私たちを繁栄させ、神を知らない外国人たちや、神に従わない罪人には罰を与える、そう信じていました。

 

 ですから、彼らは宗教規則を一生懸命に守りました。彼らの社会には、「こうでなければならない」(ねばならない)、「それは間違っている、罪だ!」(してはならない)「この基準に沿わなければ救われない」(こうでなければ神に愛されない)、といった考えや言葉が溢れ、互いに比べ合い、裁き合い、罪に定め合いました。基準に合う人は誇り高ぶり、基準に沿わない人を、罪人だと指さし、否定し、切り捨て、見下していたのです。

 

 ですからイエスは、あなたがたは宗教に縛られている、「ねばらならい」「してはならない」という基準に束縛されている、と言ったのです。宗教改革者マルチン・ルターは、人は何がしかの奴隷となっているという意味で『あなたの心を縛っているもの、それがあなたの神だ。』と言いましたが、彼らは、宗教規則を神とし、その奴隷となっていたのです。それは神の意に反する「罪」であり、イエスはあなたがたは(一見すると宗教的・信仰的なようで実は)「罪の奴隷」(34節)だとまで言うのです。

 

<自由なイエス>

 一方でイエスは自由でした。宗教規定に縛られず、宗教が引いた「正しさ」と「誤り」の(「聖さ」と「罪」の)境界線をひらりと飛び越えます。罪人だと追い出され、神に愛されない見下されていた人々(取税人、遊女、病や障碍を抱えた人々)の友となりました。イエスは「ねばならない」から、「してはならない」から、「こうでないと救われない」から自由だったのです。

 

 キリスト教の名著にマルチン・ルターによる『キリスト者の自由』(岩波文庫)があります。(『キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない』と『キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する』という二つのテーマが扱われます。)

 

 キリスト者の自由とは、社会的責任からの自由(身勝手や責任放棄)でも自分達は特別だという選民思想でもありません。 キリスト者の自由とは宗教の束縛からの自由です。イエスの時代のユダヤ教は、ルターの時代のキリスト教は、そして今日のカルト宗教は(教会も?)、こうでなければならない、こうしなければ神に愛されない、と戒めと恐怖で、人々を束縛しました。だからルターは言うのです。

 

 『キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しない。・・・彼がいかなる行いをももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法とから解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかにかれは自由なのである。これがキリスト教的な自由であり「信仰のみ」なのである。』(『キリスト者の自由』より)

 

 キリスト者の自由とは、「行動による救い」からの自由です。「ねばならない、してはならない」からの自由です。「正しくなければ自分は愛されず、罰せられる」という恐れからの自由です。

 

 みなさんは様々な宗教を見て(時に教会を見て?)、考えや主張の偏狭さ、独善的であったり、束縛するかのような教えに、不自由さを感じてはいないでしょうか?または、それに慣れきって、『こうでなければ愛されず救われない』と、恐れや不安から行動していませんか

 

真理はあなた方を自由にします。」(ヨハネ8:32)と言ったイエスは。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言いました。イエスの言動こそが、神の意志の、神の愛と慈しみの完全な現れであり、そこに宗教からの自由があります。

「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」エペソ3章18〜19節

神の愛は広く、高く、大きく、深いのです。

 

 

<不自由なイエス>

一方で、イエス自身はとても不自由でした。

 イエスは、十字架に釘付けにされて動けません。そこから降りる力も、敵対者を制圧する力もありながら、不自由に十字架につけられたままです。 

 貧しく、乏しく、批判され、攻撃され、誤解され、抑圧されたような環境を受け入れていました。一般的な意味ではとても、不自由に見えます。

 

 イエスは不自由でした。イエスの心はいつも縛られていました。その歩みは絶えず束縛されていました。宗教規則にではありません。私達にです。

 抑圧された人、虐げられた人、問題を抱えた人、罪に苦しむ人、に対して、心縛られていたのです。イエスはその生涯を、彼らと共にあるため、彼らが慰めを得るため、彼らが神の愛を知り生きる希望を持つため、用いました。彼らのため、私たちのため、甘んじて不自由を受け入れたのです。

 

 通常は、立場や能力の高いほうが、立場の低いほうを支配し、束縛し、利用します。けれど、イエスは、本当のキリスト教は逆なのです。神が私たちを縛るのではない、神であるキリストが、私たちに心を縛られ、その生涯を、いのちを捧げたのです。

 

『6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。』ピリピ人への手紙2章

 

 誰よりも自由な、何ものにも束縛されないはずの神は、その自由を行使して、私たちのために不自由になり、神と人との境すらしなやかに飛び越え、十字架にまでかかられました。それが私達の信じる、信じられないほど愛に満ちた神なのです。神が私たちを縛るのでなく、神が私たちに縛られるのです。

 

<下僕(しもべ)となる自由>

 先日の転入会式で、お伝えしました。教会が人を束縛し、支配し、利用するのではない。それはカルト宗教のやり方です。本当のキリスト教は逆なのです。教会がその人に束縛され、愛し、受け入れ、祈り、仕え、支え、励ますのですと。『キリスト者の自由』はこう続きます。

 

『キリスト者は今や全く自由ではあるが、しかし彼は喜んでその隣人を助けるためには己れを僕となし、あたかも神がキリストを通して彼と関わりたもうたように、彼とかかわり行うべきである。・・・キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。・・・見よ、かようにして信仰から神への愛とよろこびとが溢れいで、また愛から、価なしに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びにみちた生活が発出するのである。』(『キリスト者の自由』より)

 

 私達は、自由に、自発的に、下僕(しもべ)となるのです。立場のある人や、利益をもたらしてくれる人にではありません。なんの見返りも払えない、追い出され、見下され、た方々に仕えるのです。(与えられるものがなければ、共にいるだけで良いのです。)

 

 キリストに従うとは、宗教行為に熱心になることでなく、キリストに倣うことなのです。

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