毎日の聖書9月18日〜26日

おざく台教会毎日の聖書 9月18日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

9月18日(月)哀歌3章  

22〜23節「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」

 最悪の状況の中で、神の恵みが歌われています。難しい状況に目と心を奪われる時もあります。けれどそれ以上に、恵みの神に、神の憐れみに私たちの目と心を奪われたいのです。21節以降をあなたの祈りとして、もう一度ゆっくりと読んでみてください。

 

 

9月19日(火)哀歌4章

22節「あなたへの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移すことはなさらない。」

 神様はずっと私を責めている!という思いに支配されることはありませんか?神に見捨てられるのでは、とビクビクして過ごしていないでしょうか?神があなたを責め続けることは決してありません。その究極の証拠が十字架のキリストです。あなたは、十字架により、すでにもう、愛され、赦され、受け入れられているのです。安心して歩んでください。

 

9月20日(水)哀歌5章

6節「私たちは十分な食物を得ようと、エジプトやアッシリアに手を伸ばしました。」

 民は神様にではなく、目で見え、手で触れられ、実感できる具体的な助けに手を伸ばしました。もちろん、物事や周囲の人に頼ることは大切です。けれど、あなたをいつも気にかけている神様を忘れてしまってはいないでしょうか?どうかまず神様に祈り、聞き、助けを求めてみてください。もちろん結果的には同じように、誰かや何かに頼る方法へと導かれるかもしれません。けれど、その時も、私達の心は神と繋がっているのでっす。

9月21日(木)エゼキエル書1章

1節「私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」

 捕囚という厳しい現実の中、突然天が開け、神の介入が始まりました。目の前の悲惨な状況だけが全てではないのです。悪や絶望が支配して見えるときにも、神の介入はあるのです。

 目の前の状況に押しつぶされてはいないでしょうか?私達もまた神の介入を信じ、祈り求め続けたいのです。

 

 

9月22日(金)エゼキエル書2章

5節「彼らが聞いても聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなくてはならない。」

 人が聞いてくれるからキリストを伝えるのでも、人が感謝してくれるから人に仕えるのでもありません。私たちの生活は人の反応ではなく、神の言葉に導かれるのです。相手の言葉・行動・反応に左右されすぎてはいませんか?私達は相手の反応によらず、愛すること、仕えることを、貫くのです。まず神様が私達にそうしてくださったように。

 

 

9月23日(土)エゼキエル書3章

17節「わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」

 私たちは預言者ではありませんし、人様に何か言えるほど、偉い人間でもありません。伝わる言葉もありませんし、自分の伝えることが偏ってはいないか、上から目線で失礼に当たらないかなど、心配もあります。

 しかし、神が信仰者を通して、人に大切なことを語る場合が確かにあるのです。そのような促しを感じることはありませんか?謙遜で配慮の出来る皆さんならきっと大丈夫。愛と思いやりの心を伴う言葉は、必ず相手の心に届きます。安心して神の憐れみ深さを伝えて良いのです。

 

9月24日(日)エゼキエル書4章

4節「あなたは左わきを下にして横たわり」

 神がエゼキエルに命じたのは、その振る舞いを通して神のメッセージを表すことでした(少しユニークな方法です)。アッシジの聖フランチェスコは言いました。「福音を伝えなさい。必要ならば言葉を用いなさい。」私達の一挙手一投足が、福音のメッセージなのです。私達の日々の生活や言動が、神の愛と憐れみを表すものでありますように。

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