7月2日のメッセージ

おざく台教会2023年7月2日「キリストと出会う⑨」

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<聖書>ヨハネの福音書4章

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―

 

<我とそれ、ではなく、我と汝>

 人生は出会いである、と言います。コミュニケーションの語源は、『共に変わる』という言葉だそうです。関わりを通して、互いに教えられ、互いに変えられていくのです。私達はこれからも、人との出会い、そして恵み深い神との出会いを通し、広く、深く、豊かに、変えられていきたいのです。

 

 先日性的少数者への理解促進を扱った、LGBTQ関連法案が国会を通過しました。評価する声もありつつ、LGBTQ当事者の方々や理解者の方々からも、保守的・伝統的な立場の方々からも、厳しい意見もまた聞かれます。私達は他にも、貧困、障碍、外国人労働者、その他様々な社会問題について、それぞれの視点、意見があるでしょう。

 

 ただ、その際に、気をつけたいのです。問題に直面し苦しんでいる人に対して、他人事として、安全圏から、自分の限られた経験をもとに語ってはならない、です。その言葉は、石となり、刃となり、苦しむ人の心と魂を、さらに深く傷つけます。

 それら社会問題を研究する人たちは、『我とそれ』の関係ではない。『我と汝(なんじ)』の関係だ、ということを肝に銘じているそうです。(例えば、LGBTQという名前の人は、外国人不法滞在者という名の人間は、一人もいないのです。それぞれの名前と人格を持った、神に造られ、その人だけの人生を歩んでいる、一人の人がいるだけです。)

 けっして、他人事とせず、私事として、同じ社会に生きる者として、当事者性を持って、(当人の痛みは欠片ほども分からないと知りつつも)、共に苦しむことを諦めない、そのような姿勢で向き合うそうです。

 

 私達キリスト教プロテスタントは、聖書をとても大切にします。聖書は、私達の生きる指針であり、信仰者の判断基準です。(もちろん聖書と現代とでは、時代や文化がかなり違いますし、内容も多岐にわたりますので、偏らないように、祈りつつ、自分たちの状況に適用しようと知恵を絞ります。)

 けれど、時に聖書を開き、一文を引用し、さも全てを悟ったかのように、これはこう書いてあるから、と、遠く安全圏から(まるで自分が神の代弁者であるかのように)判断を下し、今この瞬間に倒れ、苦しんでいる人を、切り捨ててはいないでしょうか?(そのような姿勢はキリステ教だと批判されます)

 私達の主、何よりの生きる指針であり、一番の判断基準である、イエス様はどうだったでしょう? 

  

私事とする、究極の当事者キリスト

 ユダヤ人にとって、今日のサマリヤの女性は、まさに『それ』と呼びたくなる存在でした。敵対民族であるサマリヤ人、社会的に立場の弱かった女性、5度離婚をし現在は同棲している人生の失敗者であり『罪人』、多くの人は見下し敬遠したでしょうし、もしかしたら、愚かで可愛そうな『当事者』として、せめて憐れみを欠けて優しくしてやらなくもない、上から見下ろして、遠いところからそう考えた人も一人くらいはいたかもしれません。けれど、イエス様は違うのです。

 

4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 

 イエス様はエルサレムに行く途中でサマリヤを通るのです。ガリラヤからエルサレムに行く途中にサマリヤがあります。ユダヤ人は、サマリヤを嫌い、大きく迂回して、エルサレムに向かいます。

 けれど、イエス様はサマリヤを通るのです。この『ねばならない』は『神の必然』を表すデイ、というギリシャ語が使われています。ユダヤ人は、汚らわしいサマリヤを避け「ねばならない」と考えた、けれどイエスは、サマリヤを通ら『ねばならない』、この女性に会わ『ねばならない』と考えたのです。

 

7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。・・・9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―

 そして、敵対民族という隔たりを超え、男女という社会的力関係の隔たりを超え、女性の抱える課題への宗教的是非という隔たりを超え、声をかけるのです。「わたしに水を飲ませてください。」と。へりくだり、弱く、必要を抱えた、無防備な存在として、女性に出会うのです。

 

 イエス様は天から見下ろし、あの男性は正しく救われる、あの女性は罪深く裁かれる、と判断する方ではない。苦しむ人を前に、聖書の巻物を取り出し、これは聖書的だ、これは正しい解釈ではない、と「我とそれ」で見て、分析し、切り捨てる方ではない。また、高いところから、苦しむ可哀想な当事者を、仕方なく憐れんでやる方でもないのです。そうではなく、神でありながら天から地へと下り人となり、罪人とされた人々の中に飛び込み、貧しくなり、乏しくなり、弱くなり、自分自身が当事者となるのです。

 

 聖書で、神の憐れみとは、キリストの可哀想に思う、とは、スプランクニゾマイという言葉です。スプランクナとは内臓のこと。内蔵がねじ切れるような痛みを伴って憐れむ、決して他人事ではない、自分自身の事として、痛み、苦しみ、動かざるを得ない。そんな憐れみです。ある研究者は、このキリストの姿勢を、『究極の当事者性』と呼んでいました。

 

<共に生きてくださるキリスト>

 親しいという言葉があります。親族とか、親にも使います。昔は人が死ぬと、墓の代わりに木に傷をつけて、死者を覚えました。それが親しいという漢字の左側の部分の意味です。ですから、親しさとは、死を、悲しみを、共に見つめる、そのような意味合いを成り立ちとしています。

 キリストは、サマリヤの女性の問題を、苦しみを、自分自身のこととして、「我と汝として」会いに来てくださる方です。共に苦しみ、共に泣き、共に歩んでくださる方です。それどころか、私達の罪をご自身の罪として、引受け、十字架にかかられた方、究極の当事者です。

 

 もちろん、社会的な決まり事、伝統的な価値観、宗教的な正しさ、それは大事です。正しさは物事を円滑に進め、安定をもたらします。私達は正しくなければ神の前に立ち得ないと考えます。けれど、正しさとは何でしょうか?文章でまとめ、信条で表現しうるのでしょうか?

 聖書の内容は多様であり、状況倫理と言えるくらい、何が良くて、何が悪いのか、人や状況によって、大きく変わるのです。良いこと悪いこと、正しさの基準を、聖書に求める姿勢は大切です、けれど、

 

マタイ19章  16 ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。

 

 本当に善い方は、正しい方は、一人だけです。本当の正しさとは、文章に固定できないのです。そうではなく、人となった神のコトバ、キリストにこそ表されているのです

 

 人々が嫌い、見下すサマリヤを通ら『ねばならない』と考えられたイエス、大きな問題を抱え罪深い人間と切り捨てられていた女性に会いに行き水を求めたイエス、この方にこそ、本当の善悪が、正しさが表されているのです。

 

みなさんの中で自分を軽んじる方はいますか?

イエスはあなたに会いに来られた方です。私事として、罪さえも引き受けられた方です。

みなさんの中で、誰かを軽んじ、見下し、自業自得だと切り捨てている方はいますか?

イエスはその方にも会いに来られた方です。その方の痛みを共に痛み、放っておけない方なのです。

 そして、その痛みを共に、私事として、自分も当事者として、少しでも痛むとしたら、キリストにならうとしたら、そこに神の国が表されるのです。

 

クリスチャンの詩人で画家の星野富弘さん(全身麻痺のため、筆を口に加えて絵を描きます。)の詩を思い出しました。

よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせが近いような気がする
強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする

 

 私達の力にはもちろん限界があります。だからこそ、私たち自身の問題を、自分のこととして、共に痛み、私たちを放っておかないでくれた方に目を向けたいのです。

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