11月27日

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202211月27日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑬〜

<聖書:マタイの福音書13章1〜9節>

3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた、土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 

9 耳のあるものは聞きなさ。」

<天の御国のたとえばなし>

 今日から待降節(アドベント)です。クリスマスまでの間、キリストが来てくださったことを感謝し、再び来てくださることを待ち望む、そのような期間です。

 マタイの福音書には、5つの長いメッセージが記されていて、13章は3つ目のメッセージ、天の御国を例え話を用いて話しました。天の御国は、一般的な天国(死後の世界の楽園)と少し違います。

 日本では秀でた人や事柄をすぐに何でも「神」と呼びますが(あいつマジ神、神対応、神動画など)ユダヤ人はその逆で、神の名を安易に用いないため「神」の代わりに「天」を用いました。ですから、天の御国とは神の国を意味します。そして「国」とは、別の箇所で「ご支配」と翻訳されるように、国家や領土ではなく、統治や支配を意味します。天の御国とは、神が愛と恵みをもって支配している状態、神様の良い心とご意志が実現している様子を指します。それは「すでに」この地上でも見ることができますし、「やがて」完全に実現するのです。(やがての天国も、その環境も素晴らしいとは思いますが、素晴らしい神様と完全に出会える場所だからこそ、私たちは憧れ望むのです。)

 イエス様はそのような、恵み深い神様と出会わせるために、神様との関係に(つまりは神の国に)私たちを招くためにクリスマスに生まれてくださり、その神様の愛によるご支配を例えで話してくれました。

①巻かれた種と4つの土地の例え(3〜9節)

 これには、18〜23節でイエス様が解説をしてくれています。神様は、神の言葉という良い種をすべての人にまいてくださった。種はもう蒔かれているのです。神の国は、限られた人が辿り着くのでもない、優れた選ばれた人が入れるのでもない。方向が逆なのです。神の言葉はすでに私達に向けて、蒔かれているのです。その種の力によって、キリストの良い教え(福音)によって、いえ、神の言葉そのものであるキリストによって、私たち神と出会える、恵みを受け、味わうことができる。

 大切なのは、生まれでも、才能でも、犠牲でも、努力でも、ありません。ただ、心で受け止めること、開かれた耳で聞くこと(9節)です。

②、⑦畑の麦と毒麦のたとえ(24〜30節)と地引網のたとえ

 これも、37〜43節で解説があり、やがて良い麦と毒麦を、正しい者と悪いものを、神が分けるというのです。地引網の例えも似ています。

 ポイントは、やがて神が判別してくださるということです。イエスの聴衆の多くは・・・「あなたがたは正しくない、立派でない、何も持っていない、問題を抱えている、過去に大きな失敗がある、生活には罪がある、だから、神の目にはかなわない、神に見捨てられる、神の国に入れない」そう言われていました。しかし、今人間が、私達が判断するのではないのです。やがての日に神が正しく判別してくださる、のです。私たちの冷たい、勝手な基準ではなく、神の憐れみの基準によってです。

 主イエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです・・・取税人や遊女たちは彼を(キリストを示したバプテスマのヨハネを)信じたからです。」(マタイ21章31〜32節)その基準とは、神の恵みを受け入れたかどうか、ただそれだけなのです。

③、④からし種とパン種のたとえ

 神のご支配は、目に見えないほど小さく思えても(からし種は1ミリ以下)、やがて木のように(からしが3Mの高さの木となるように)大きく広がり命を養うものとなる。 だから、強大な力に見える、ローマ帝国やユダヤ社会を恐れすぎてはならない。それらの力に比べてからし種のように小さく見えようとも、神の力を信頼して、手に入れた、神の言葉を神との関係を大切にしてください。

⑤、⑥畑に隠された宝と高価な真珠のたとえ

 あなたが受け止めた神の言葉は、神との関係は、神の国は、何物にも代えられない価値がある。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

この箇所は偏った、私たちを苦しめる、福音とは正反対の意味で、語られることもあります。

豊かな実を結ぶことが信仰者としてふさわしい。(生活に大きな変化がないなら、多くの人を教団に勧誘し、入信させ、教団に貢献しないなら、あなだは問題がある。

②、⑦神が最後の審判をするので、正しく従順でありなさい。(神に選ばれるように、がんばりなさい。指導者の、教団の意見を聞かないような人は、毒麦であり、天国に入れません。)

③、④私たちの宗教団体も、大きくならなくてはいけない。(そのために貢献しなさい。

⑤、⑥天国のために、救いのために、すべてを投げ出してでも惜しくはないのです。(教団に、生活も、金銭も投げ出しなさい。)

それは、宗教団体や宗教指導者の恐怖による支配、洗脳や束縛であり、神の愛のご支配とは違うのです。

 

 私たちの神様は、私たちから求め奪う神ではなく、私たちへ差し出し与える神です。

 当時の農業は、手で種をばらまいてから、鋤で土に混ぜ込みました。当然、4つの土地のように、農夫の蒔いた種はいろいろな場所に落ちるのです。もったいない、そう思うかもしれません。

 けれど神様はもったいないような方です。相手が拒もうが、無下に扱おうが、選り好みせず、すべての人に、良い知らせを差し出してくれているのです。私たち受け入れようが受け入れまいが、クリスマスに人となって生まれてくださった神であり、信じようが信じまいが、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださる愛の神なのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

 

 これが神の良い知らせです。神が蒔いた種とは、キリストとも言えます。私たちがすべきは、神のために何かを成し遂げることでも、神に犠牲を差し出すことでもなく、神の言葉に聞く耳を持って聞き、ただ受け止めるだけです。私たちが豊かな実を結びそれを神に差し出したから受け入れられるのではなく、神がご自身を私たちに差し出し私たちが受け入れたから、結果として実を結ぶのです。

 私たちは、知恵がある人が、宗教的な人が、豊かで幸せそうな人が、神に選ばれるのにふさわしいと考えます。人は上辺を見て、好き勝手な判断をします。けれど、神はすべての人を、私たちを選び、キリストを差し出してくださった。ですから大切なのは、その差し出された贈り物を、キリストを受け取ったかどうかです。

 園児によく話します。「クリスマスにもらえるおもちゃのプレセントも嬉しいけれど、何よりのクリスマスプレゼントはイエス様だよ。」このプレゼントはすでに差し出された、無償の恵みなのです。

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