毎日の聖書3月7日~13日

おざく台教会毎日の聖書 3月7日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

3月7日(月)第2サムエル記8章

14節「こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」

6節、14節と繰り返される勝利の記述。サウルに追われていた最悪の時期を経て、良い時期を過ごすダビデ。しかし忘れるべきでないのは、悪い時も守り、良い時には勝利を与え、目に見える形は違えど、神の恵みはどんな時も変わらなかったことです。あなたにもまた、神が共にあるという素晴らしい恵みが、今日も明日も与えられているのです。『もしキリストが与えるすべての賜物を得たとしても、キリストご自身を受け損なったら、それはいのちを失うことになるのです。』(デニスキンロー)神は(どんな時も)愛です。

 

受難節第5日:マタイ23章

 

 

3月8日(火)第2サムエル記9章

13節「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。」

メフィボシェテは自分自身を『死んだ犬のような私』(8節)と呼び、小さくつまらない者として見ていました。自分の運命を呪ったこともあったかもしれません。しかし、ダビデを通して、驚くべき立場が与えられます。ダビデもですが、誰よりも神こそがメフィボシェテを愛していたのです。

力の無さや背負っている重荷は、神の愛と救いの前では、何の意味もありません。あなたに向けられた、神の無条件の愛を妨げるものは、何もないのです。

 

受難節第6日:マタイ24章

 

 

3月9日(水):第2サムエル記10章

12節「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。」

ヨアブは決して人格的・霊的な人物ではありません。しかし、戦士であった彼の言葉には、私たちが学ぶべき真理が含まれています。私たちは、ヨアブと同じく、神を深く知らないかもしれませんが、私たちの愚かな思いであっても、神様の思いや願いと重なるところがあるとき、神様は豊かに働いてくださるのです。キリストによって強い心でありましょう。誰よりも強い方が一緒ですから。

 

受難節第7日:マタイ25章

 

 

3月10日(木)第2サムエル記11章

15節「その手紙にはこう書かれてあった。『ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。』」

耳を疑うようなダビデの言葉です。人妻であるバテシェバを奪い、妊娠の事実を隠そうと策略を巡らし、それに失敗したのならばと夫ウリヤを殺そうとしました。立派な信仰者も罪の誘惑に負け、悪魔のような振る舞いをすることがあるのです。

罪とは、最初は小さなものでも、雪だるま式に膨らみ、やがて制御不能になるのです。ですから早めの対策が必要です。以前、霊的な119番というものを聞きました。第1ヨハネ1章9節『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』罪を犯すこと以上に深刻なのは、その罪を放っておくことです。すぐに赦しの神の前に出ましょう。

 

受難節第8日:マタイ26章1~13節

 

 

3月11日(金)第2サムエル記12章

8節「さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」

何よりも神様が悲しかったのは、なぜ、今ある恵みに感謝出来なかったのかという事と、不満ならば、なぜ私に求めなかったのかという事でした。

与えられている恵みから目を離す時、神から目をそらす時、私たちの歩みはおかしくなってしまうのです。神様に、キリストに、与えられている恵みに、いつも以上に目を向ける一日としてください。

 

受難節第9日:マタイ26章14~35節

 

 

3月12日(土)第2サムエル記13章

36節「彼が語り終えたとき、そこに王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣いた。」

バテシェバの強奪と、ウリヤの殺害は、ダビデの霊性を、ダビデの家族関係を、そしてイスラエルの歴史を大きく狂わせました。罪の恐ろしさは、周囲に甚大な悪影響と傷を与えることです。

あなたの心は悪に魅かれていないか、あなたの内に神が喜ばれない思いや、告白されていない罪がないか、時間を取り、静まって点検してみてください。

 

受難節第10日:マタイ26章36~56節

 

 

3月13日(日)第2サムエル記14章

33節「アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした。」

ヨアブの尽力によって、アブシャロムに、ダビデとの和解の道が開かれました。しかしアブシャロムの心の闇は深く、この表面的な和解では解決には至らず、やがて悲劇へと向かいます。

一時的な和解も大切です。しかし、敵意を十字架によって葬り去った方、キリストにある和解こそが、本当の和解なのです。

 

 

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2章14~15節

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