7月25日のメッセージ

IMG_20210725_074307

2021年7月25日おざく台キリスト教会 「キリストの実を結ぶ④~寛容・忍耐~」

 

12:5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。12:7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』12:8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。12:9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。12:11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」         マルコの福音書

 

<寛容と忍耐>

御霊の実(神が信仰者にもたらしてくれる性質。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5章22~23節より)の4つ目は寛容です。寛容とは、何でもいいよ、気にしないよ、好きにしていいよ、といった消極的なものとも聞こえますが・・・

 

この『寛容』は、英語訳ではPatience(忍耐)、原語のギリシャ語マクロスミアは、マクロス(長い)、スーモス(受難・怒り)であり、『忍耐』とも訳されます。

そして、イエス様の時代にあった、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳『70人訳』では、

「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」出エジプト記34:6~7という言葉の翻訳に使われています。

新約聖書でもそれを受けて、神が罪深い人間の悔い改めを信じて、待ち続けるという文脈で使われます。(「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」第二ペテロ3:15 他ローマ2:4、ローマ9:22、第一テモテ1:16、第一ペテロ3:20)

 

ですから、『寛容』とは、神様の忍耐であり、私たちが悔い改めてほしい、立ち返って欲しい、あるべき姿になって欲しい、という神様の情熱なのです。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」エゼキエル33:11

罰したり、見捨てたりは簡単です。しかし、絶対に見捨てず、見放さず、諦めないのが私達の神なのです。

 

<諦めない神>

例え話とは、大切な一つのことを伝えるための例話であるため、全てが聖書の他の箇所と一致しているわけではありません。けれど、それを通して、聞き手の心を動かし、伝えたいこと、気付いてほしいことがあるのです。今回ならば、神の「寛容」・「忍耐」の心、私たちへの変わらぬ想いです。

 

主人に逆らい、他人のものを乗っ取る農夫たち・・・これは中東の文化では一発アウト、3節の時点で罰するべきなのです。それなのに、主人は、変わってくれるかもしれない、分かってくれるかもしれない、と何度も何度も使いを送る。愚かとも思えるくらいの姿です。聞いていた宗教指導者たちも、早くこの農夫たちを罰するべきだ、主人は何をやっているんだ、と怒りながら聞いたでしょう。

けれど、この農夫こそ、神の都エルサレムで好き勝手に振る舞う宗教指導者であり、神の造られた世界で自分が神のように振る舞う私達の姿であり、この主人こそ、私達の変化を待ち続け、諦めず手を伸ばし続けてくれている神の姿なのです

主人は最後には、彼らが変わるようにと、息子を送ります。けれど農夫たちは、宗教家は、そして私たちは、神の子キリストを、エルサレムの外で、ぶどう園の外で、十字架で殺し、投げ捨てるのです。

 

<神の忍耐のクライマックス>

けれど、神様の忍耐はこれで終わりません。例え話は、神の忍耐が主題であったため、9節で一応の終わりを迎えます(AD70年のローマ帝国によるエルサレム崩壊を指すとも言われます)。

怒って聞いていた人々も、少しは満足したかもしれません。私たちは、自分は大丈夫かな?と思うかもしれません。けれどイエス様は、当時の常識を超えた話を、さらに超えたことを10節で告げます。

 

12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。12:11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」

イエス様は、見捨てられた石が、自分の死が、礎の石(建物の基盤)、救いの土台となること言うのです。人の悪意や敵意、神への反抗さへ、神様は人が救われるため、変えられるために用いたのです。

 

人は神の思いを軽んじ神を拒みます。イエス様の裁判のときも「民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」マタイ27:25と啖呵を切ります。責任は自分達で負う、自分で始末する、という意味です。

けれど、血をかぶることには、もう一つ別の意味もあります。旧約聖書において、犠牲の血をかぶることは、罪からの浄めや契約を意味しました。(「モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、」出エジプト記24:8、「きよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し」レビ記14:7、「すべてのものは血によってきよめられる、・・・血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」ヘブル9:22)

キリストに血がかかる者は、呪われるのではなく、責任を問われるのでなく、浄められるのです。赦されるのです。神は、私達の反抗を、呪いを、愛と赦しで返してくださったのです。

 

<私達の忍耐>

「寛容」とは、「忍耐」とは、神様の徹底的な愛の現れです。そして、忍耐が私たちの内にも生まれるというのです。もちろん私たちの内には忍耐はありません。けれど、諦めないでください。神の言葉は、努力目標ではなく、神の約束です。神がそれをしてくださるのです。

私たちは神の忍耐に、神の愛に触れるとき、旧約の詩人のように「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」詩篇8:4と驚く時、私たちの内にも、人が変わるのを信じ諦めない忍耐の心が生まれていくのです。

 

<今週の黙想>ヘブル9章を読み、キリストのしてくださったことを覚えつつ、あなたも誰か一人を決めて、その人のために祈り続ける一週間をおくってみてください。(第二テモテ4:2)

 

Top