6月9日のメッセージ

おざく台教会202469日「たましいの糧 

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<聖書:ローマ人への手紙14章4節> 

このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。 

 

<光よ、あれ。あなたよ、あれ。> 

創世記1章3節「神は仰せられた。『光よ、あれ。』すると光があった。」 

 『ビッグバン』という言葉を聞いたことがありますか?この世界、宇宙は、何もないような小さな点から、(熱や光などのエネルギーが)急激に膨張して広がり始まった、そう主張したのは、天文学者で、カトリック教会の司祭でもあった、ジョルジュ・ルメートルです。宇宙の始まりに関するその説に人々はその説に驚き、あの天才アインシュタインですら最初は信じられなかったそうです。「ルメートルは司祭だから、キリスト教の話を物理学に持ち込んだのだ」、そう批判もされました。
 もちろん昔に戻って世界の始まりを見ることはできませんが、今日では、ルメートルは、正しかった、宇宙はまるで「光よ、あれ。」という聖書の言葉のように、無のような小さな状態から、急速に広がって生まれた、と一般的に理解されています。 

 そして、この聖書の言葉は、宇宙の始まりの出来事を美しく表すだけでなく、その出来事の意味を私達に教えてくれます。聖書には、ただ偶然に光が生まれた、とは記されていないのです。光は、この世界は、「光よ、あれ。」と、願われて、生まれたのです。 

 私たちは、偶然、結果的に、意味もなく、今ここにいるのではないのです。聖書は、光よあれ、世界よあれ、あなたよあれ、そう願われて、今の私達があるのだと教えてくれます。私達は、生きていることを、存在することを、今ここにあることを、神に心から願われたのです。 

 一方で、学歴、社会的地位、経済力、容姿、能力、などにより、人が順位付けされます。ある人は、重宝されたり、もてはやされたりしますが、ある人は、邪魔者として、時に、まるで存在しないかのように扱われます。あなたなど、いてもいなくてもどちらでもいい、役に立てばいてもいい、迷惑をかけるならいらない、そんな悲しい言葉や考え、態度が、この世界には溢れています。 

 けれど、そうではないのです。この世界は、私たちは、今この瞬間も、神に願われ、存在を心から喜ばれて、今ここにいるのです。今日も、「光よ。あれ。」「あなたよ、あれ。」そう心から願っている神様がいるんだ、という安心に支えられ、過ごせますように。 

 

<あたたかな眼差しに支えられて〜ソーシャルリファレンシング〜> 

 誰かから、望まれる、受け入れられる、大切にされる、喜ばれる、それは私達に安心と自信を与え、よりよく生きる力につながります。 

 幼稚園の先生をしていた頃、園児たちは、自分が愛され受け入れられていることに疑いがない、自信がある様子でした。その他者からの受容という安心に支えられ、温かい眼差しを受けながら、愛されている存在として(親の思いを確認しながら)良い選択をしていく、専門用語でソーシャルリファレンシングといい、子どもたちの健全な成長にとって欠かすことができない感覚です。(それを通り越して傍若無人になることもありましたが・・・) 

 

 私達はもう大人ではありますが、天の父なる神様に心から愛されている神様のこどもだと、聖書は教えています。そして、よりよく生きたいと願うとき、私達にも神様からのあたたかな眼差しが必要です。すべての人が神から、「あれ」と願われ、望まれて存在しているのだ、神に尊ばれ、喜ばれているのだ、それが聖書のメッセージであり、それを実際に示すのが、教会の使命です。神様からいつも、愛され、受け入れられ、見守られている、その愛に応えて、自分を大切にし、神が喜ぶような、良い生き方を選択していきたい、これが信仰の自然な歩みなのです。 

 

<神が立たせる> 

 ところが、今日の箇所は、教会がそのような本来のあり方を失ってしまったことを、使徒パウロが嘆き、諭している箇所です。ユダヤ教には、様々な宗教規定があり、たくさんの、「〜でなくてなはならない。」「〜してはならない」という教えがありました。例えば、食物に関する様々な宗教規定、豚を食べてはならない、血抜きをしなくてはならない、他宗教と関わりのあるものを食べてはならない、などです。(それはある時代には、衛生的にも、社会的にも、意味がありました。しかし、時代や地域や状況が変われば、必ずしも同じようには適用できないのです。) 

 教会にはユダヤ教の背景がある人も多くいましたが、ユダヤ教の規定を守らなくては救われない、(つまり十字架だけではだめだ)、そう教えだしたのです。あなたは宗教的でないから劣っている、宗教規定を守らないものは救われない、守れないあなたは呪われている、そんな言葉が教会を満たし始めました。人々は、神に嫌われる、神に罰せられる、そう恐れ、ビクビクしながら歩み、互いに見張り合い、裁き合ったのです。 

 

 それは今日も、無関係ではありません。教会の中で、豊富な知識、正しい行動、正しい神学や理解、宗教活動、それらがないとまるで神様から愛されていない、罰せられ捨てられるかのように語られる場合があります。信仰歴、貢献度、奉仕量、献金額などにより、ある人もてはやされたり、ある人が軽んじられたりすることもあります。それらは、本来の信仰の歩みではありません。 

 何かできること、何かをすること、それ自体は良いことです。けれど、それで人の尊さは測ることはできないのです。人が社会的であれ、宗教的であれ、勝手な物差しで、人の価値を測ることに、パウロは反対し、神様の心を告げます。 

 

3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。 

15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。・・・17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 

 

 この「食べ物」のところに、社会が、教会が人を測る物差しを当てはめてみればよいのです。(知識、能力、容姿、地位、経済、健康、信仰生活でも貢献度など) それらは、けっして悪いものではないですが、それらによって人の価値を図ることはできない、わたしたちのつまらない曲がり歪んだ基準によって、神が「あれ」と願い、受け入れた、人を、「いらない」とか「価値がない」などとは決して口にしても、態度に出してもならないのです。 

 私達に、神が尊ぶ人を、軽んじる資格はないのです。仮に私達が軽んじたり、軽んじられたり、否定したり、否定されたりしても、・・・・拒まれたその人は、立つのです。神がその人を立たせるのです。私達はだれも軽んじてはなりません。 

 また、誰の言葉によっても、自分を軽んじさせてはなりません。 「あれ。」と言い、わたしたちの存在を心より、願い喜んでくださる神の言葉により、立ち上がってください。そして、私達の存在を「あれ」と願い、喜んでくださる方の眼差しを受け、今日を、明日を、誠実に歩んでください。 

  

 今日の応答の賛美歌は「立てよいざたて」、を歌います。ちょっと軍歌のようですが、ここで出てくる敵や仇は、他国でも、他宗教の方々でも、思想・信条・立場が違う誰かありません。神は敵意を人と人との間ではなく、人と悪との間に置きました(創世記3章15節)。人間は私達の敵ではないのです。わたしたちの敵は、わたしたちの内側に、また社会に巣食い、神が「あれ」と願い尊ぶ人を、虐げ苦しめる悪や不正や差別です。虐げられた人の友となったキリストは私達に先立たれます。私達も、キリストとともに立ち上がりたいのです。 

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