4月7日のメッセージ

202447礼拝  ヨハネの福音書20章2429

IMG_20240407_084928

 24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。
 26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

は悪いこと

 新しい年度が始まりました。きっといろいろな期待や不安を持ちつつ、こう歩みたい、こうありたいと願いスタートしたことでしょう。では、神を知るとして、どう歩みたい、どうありたいと願っているでしょうか?

 多くの教会では、今日のトマスのように、疑り深こうでなければ決して信じません』という姿を、ぜひとも見習いましょう、とは教えていません。むしろ悪い見本のように言われます教会の中では、神の語りかけや日々の状況に、不平不満を言う事、疑問を持つこと、そのまま受け入れないこと、疑うこと、それは、不信仰として判断される傾向があます。(信じることと、疑うことは、相反することなのでしょうか?)

 逆に、文句を言わずにすべてを受け入れ、神や聖書や牧師!?)に口答えせず従い、なんの疑問も挟まず、自分を無にして神と人(と教会!?)を優先して生きる、ことが信仰的(?)とされます

 本当でしょうか?イエスは、神と人との関係お、父と子の関係に例えました。もしご自身の子供生徒、部下そのような人だったら・・・逆にちょっと心配ですよね。本音はどうなの?とか、ちゃんと考えているの?と、聞きたくなります。

 トマスさんのように、正直に自分の心を話し、疑問を隠さず、ちゃんと神に向き合える、これも大切な信仰の姿勢なのだと思います。

信仰とは神に向く心

 復活の朝、弟子たちは恐れ、鍵を締めて閉じこもっていました。そこに復活したイエスが来た時にトマスは会えなかった他の人の様子を見に行くとか、必要なものを工面しに行くとか、何かの用事で不在だったかもしれません。逆に言えば、トマスは他の弟子たちのようにトマスは閉じこもっていなかったのです。その結果、有力な弟子たちの中で唯一復活したキリストに会えませんでした

 トマスは、少しすねたかもしれません。しっかりと自分の思いを口にします。しかし、トマスは彼らに私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じませんと言った。(25節)

 すると次の日曜、イエスが現れ、27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、

わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。28 トマスは答えてイエスに言った私の主。私の神29 イエスは彼に言れたあなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸です

 この出来事から、マスは疑り深い、不信仰な人、というイメージがつきまといます。でも、他の弟子達はイエス様が現れてくださり、それを見たから信じだのです。復活を見ずに信じたものはたったの一人もいなかったのです。イエス様は、トマスを見せしめにする意地悪な方ではないですよね?

 もう一度、振り返りたいのです。イエスは再び現れて、『トマスに言われた』(27節)のです。ほかの誰でもないトマスだけに向けて、私は信じない、と、不信仰な言葉を言ったトマス一人のために、語りかけたのです。トマスの疑問に応えて、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。』(27節)、傷を差し出しさえしてくれたのです。

 弟子たちには、手や脇の傷を見せました。でも指を付けなさい、手を差し入れなさい、とまでトマスのことを招いてくれたのです。疑問や不満を言った、トマスただ一人に向けて、イエスはここまで応えてくれた。私たちの神は、たった一人の私たちを、その反抗を、ないがしろにはしないのです。

 見なくても信じる、それほど神に信頼する者になるのは素晴らしいことかもしれません。けれど、それは、見ずに信じろ、黙って従え、と押し付けられているのではない。信仰とは、信頼です。それは本当の信頼ではないのです。

 小さな信頼を積み重ねて、神は頼りになると肌で感じ、腹で納得する(腑に落ちる)経験を通して、やがて、見ずに信じる、本当の深い信頼がうまれるのです。この箇所は、トマスへの批判ではなく、トマスへの招きなのです

 ですから、トマスのように疑ってもよいのです、ふてくされてもよいのです信じる自分、納得する自分、満足する自分を、偽らなくてもいいのです。繰り返しますが、それは信仰・信頼とは違うのです。 トマスは不満を述べました。ある意味で、ちゃんと神に向き合ったのですそして、イエスはしっかりと、トマスの疑問や不信感に、個別対応でトマスのためだけに応えてくださった。この経験を通して、トマスはイエスへの信頼を重ね、深い信頼をもった者へと変えられていったのです。

 信仰とは、宗教的な飾られた言葉を言うこと、欠点のない整った歩みをすることそういった表面的なことだけでは説明しきれないもののです。信仰とはどんな思いであっても、それが、不満や、疑いや、怒りであっても、に向いている心や魂をもまたすのです。

<あなたなりの信仰を>

 イエス様は、疑り深いトマスにはトマスに向けて、裏切ったペテロにはペテロに合わせて、個別に接してくださった。神様はいつも個別対応です。神との歩みは、一人ひとり違う、十人十色です

 キリスト教の信仰とは、オーダーメイドなのです。同じ大量生産の服を来るように、同じ行動、同じ話し方、同じ表情、同じ考え方、同じ選択、をするというイメージではないのです。

 イエスは、宗教家に対してと、罪人と言われた取税人や身を売る女性とは、全く違う接し方をしました。金持ちと、貧しい人に対しては、全く別の振る舞いをしました。 区別したと言うよりは、一人ひとりの必要を知っていたイエスは、一人ひとりに一番ふさわしい接し方をしたのです

 ですから、私たちの歩みを、決して人と比べなくて良い、人と同じでなくて良い、トマスにしたよううに、他でもないあなた一人のために応えてくださるのが、私たちの信じるイエスです。誰かのようにならなくてよいキリストににたあなたになるように歩めば良いのです。

小さな信頼を

 不満や、不安はあってもよいのです。でも、1%でも、神は良いお方である、そう信頼していたいのです。信頼しているからこそ、ネガティブな思いも含めて、神に心が向くのです。

 先日は、イースター礼拝で、母の洗礼式を行うことができました。99歳の祖母はの洗礼をずっと祈っていて、報告を聞くと大喜びで突然何曲も賛美歌を歌いだしたそうです。(まるで、新約聖書のエリザベツさんみたいですね。)

 祖母は北陸の人なのですが、実は祖母の母も、信仰を持っていたそうです。時には蔵の中でこっそりと、時には赤ん坊だった祖母を抱きながら外で、聖書を読んでいたと聞いています。しかし、戦前という時代や、地域性もあり、周囲から理解を得られず、洗礼を受けることかなわなかったそうです。状況が変わるように、必死で祈ったでしょう。でも変わらなかった。神様なぜ、どうして、そう思ったでしょう。そして、祖母が4歳の時に亡くなります。曾祖母の心は分かりませんが、はたから見れば報われないようにも思います。

 けれど、娘にあたる祖母にはおぼろげな記憶が残っていたのでしょうか、戦後満州から引き上げると、教会へ足を運び、信仰を持ったそうです。

 ひ孫に当たる私は、20年以上前に友人達を通して、孫にあたる母はコロナをきっかけにZOOMで参加し、3年ほどを経て先週のイースターでそれぞれ洗礼を受けました。

 100年も前の曾祖母の嘆きや疑問も含んだ祈りが、応えられたと言えるのかもしれません。(私が天国で一番に会い、お礼を言いたいのはこの曾祖母です。)

 疑問や、疑いがあってもよいのです。もしかしたら、疑問は晴れないかもしれない。不満や嘆きは解消されないかもしれない。それでもここにいる私たちは、1%でも、神は良い方であると知っています。そのことを忘れず、様々なを思いを、神に向けて歩みたいのです。

Top