11月5日

202311月5日「キリストと出会う26」  

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32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった 

 

<心揺さぶられる私達> 

 みなさんは、どんな一週間だったでしょうか?みなさんの心を水面に例えるとしたら、鏡のように穏やかでしたか、石が投げ込まれ、波立ちましたか?大風が吹き、荒れ狂ったでしょうか? 

 私たちは、平穏で、何も起きないことを求めます、それが無理ならば、何があっても動じないことを大切にします。風が吹こうが、波一つ立たず落ち着いている、大きな岩のようにけっして動じず揺らがないこと、そう自分の心がそうあったらいいなぁ、とも思います。 

 そして、神は何事にも動じず、全てを達観し、不変である、そう考えてはいませんか? 

 

<心揺さぶられる神> 

 けれど、今日の箇所を見てください。イエスは『霊の憤りを覚え』(33節)、『心のうちに憤りを覚え』(38節)、『心の動揺を感じ』、『涙を流された。』(35節)とあります。 

 

 イエス様の心は、波一つ無い湖面のようでも、びくともしない巨大な岩のようでもないのです。 

『憤りを覚え』は怒った馬のように荒く鼻息を鳴らす、というニュアンスの言葉です。 

『動揺を感じ』とは激しくかき混ぜられる、とか、前後に揺さぶられる、という言葉です。 

 

 神である方が、人間が泣き、嘆き諦めるのを見て、死の前に何も太刀打ちできないという人間の諦めの言葉を聞いて、心が、霊が、激しくかき混ぜられ、揺さぶられているのです。 

 逆に言えば、それだけ人間の姿に影響を受けたのです。私達の神は、私達に無関心な方ではない。私たちを見て、私達の言葉を聞いて、私達の一挙手一投足に、一言一句に、一喜一憂する方なのです。 

 

 私達の悲しむ姿にも、社会から虐げられ押しつぶされそうな人の声にも、ウクライナやパレスチナでの叫びにも、神様の心はかき混ぜられ、激しく揺さぶられているのです! 

 

 神ははるか遠く頭上高くにいて、不動で、不変で、私達のことを達観して見下ろしている、それはギリシャ的な神理解であり、西洋を経由して、私達もその影響を受けています。けれど、それは聖書の神理解ではないのです。聖書の神様は、人間のことで、嘆き、喜び、悲しみ、人間を想うあまり、自ら人としてこの世界に来てしまう、そして、苦しむ人とともにあり、救われる神です。 

ヨブは言いました。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」(ヨブ7:17) 

詩篇の作者は歌いました。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:4) 

 

 私達に心を向ける方、それが私達の姿に、言葉に、心に、ご自身の心もかき混ぜられ、揺さぶられる方、それが私達の神様なのです。 

 

<涙を流す神> 

 そして、ただ揺さぶらるだけではないのです。 キリストは涙を流されました。この場にいた他の人々の「泣く」(嘆く)という言葉とは異なり、聖書で1度しか使われない、静かに涙が溢れるという言葉です。涙がイエスを頬を伝ったのです。その理由は、その時イエスがどのような心持ちだったのかは、わかりません。 

 けれど、ラザロの死に際して、嘆くマリアや友人たちにふれて、イエスは涙を流されたのです。私達のことで、私達の悲しみに、イエス様も悲しまれたのです。 

 

 以前もお話しましたが、親しいという漢字の成り立ちは、死を共に見つめる、という意味です。親しいの左側は、墓を意味し、死に代表される悲しみや苦しみ、嘆きを意味します。それをともに見ることこそが、本当の親しさと言えるのかもしれません。 

 

 以前、一番嬉しかった言葉に、同じ幼児教育の同労者であり、キリスト者でもある方から、「井本先生の苦しみは、私の苦しみです。」と言われたことがあり、思わず涙がこぼれました。私の悲しみをともに悲しみ、私の苦しみを見て心痛め、私の涙を見て一緒に泣いてくださる人がいる。なにか解決策を持ってなくてもいいのです、一緒に悲しんでくれる、一緒にいたたまれない気持ちになってくれる、一緒に祈ってくれる、それで私はどれだけ救われたでしょうか。 

 そのような心で、キリストは私達に寄り添ってくださる。 私達の悲しみは、神様の悲しみでもあるのです。 

 

 またそれが、自分の過ちゆえの悲しみであったとしても、神から身を避けないでください。 

 ルカ15章の放蕩息子の箇所。親を捨て、家を捨て、無礼と放蕩の限りを尽くし、親子関係も、家の名誉も、自分の人生までもズタズタにした愚かな息子。その息子が、帰ってきた時、中東の文化では、その息子は殺されて然るべきですが、「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15章20節)父親は、「かわいそうに思い」、走り、抱き、口づけし、装飾品を与え、宴会をしました。 

 父親は無礼者の息子の姿を見て、怒りでなく、痛みを感じたのです。かわいそうに思ったからです。内蔵がねじ切れるほどの悲痛な思いで(当時は内蔵に心が宿ると理解されていました)、彼の現状を嘆いたのです。散々酷いことをしたのに、十分な反省もないのに、自業自得なのに・・・それでも神は痛みを感じつつ、私達に寄り添うのです。 

 

 神の心は、いつもあなたに向けられています。どうか、あなたも神に心向けてください。なんでも祈ってください。神の心はあなたのことでいっぱいなのです。この神と、歩む一週間でありますように。 

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