5月28日のメッセージ
おざく台教会2023年5月28日「あなたは決して一人ではない」
<ファミリータイム>使徒の働き
2:14そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
<聖書>
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節
<あなたは決して一人ではない>
教師として、牧師として、いつも心に願い、祈っているのは、生徒たちの、そしてみなさんの幸せです。この世界では、悩みや苦労もなく、病気や事故やトラブルもない、ということはありえません。願いが叶わなかったり、悲しみや痛み、恐れや孤独を経験することもあるでしょう。けれどそのような毎日の中でも、慰めがあり、支えがあり、励ましがあり、神が『生きよ』と言われた人生を、賢明に生きてほしい。 願わくは、少しでも、人を祝福して生きてほしい。(先週はテスト期間だったのですが、試験監督をしながら、一人一人のことを祈りながら過ごしていました。)
教会の礼拝の最後、『祝福の祈り』、の前に、『派遣の言葉』、というものを最後に読みます。
『派遣の言葉』
平和のうちに世界へと出ていきなさい。勇気をもちなさい。
いつも善を行うよう努めなさい。悪をもって悪に報いてはなりません。
気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助けなさい。全ての人を敬いなさい。主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜びなさい。
この伝統ある礼拝式文に対して不遜ながら、『神がいつも共におられます。』とつけ加えています。
一人で歩むのではないからです。一人で歩むのは難しいからです。いえ、二人でも、三人でも厳しいのです。
キリストの弟子たちは、2〜3人どころではなく、十二人、それ以上いました。自分たちもキリストのように生きたいと願っていた。人を祝福し、愛を表したいと願っていました。
でも無理だったのです。愛よりも恐れが、希望よりも不安がまさり、キリストを捨てて逃げてしまったのです。
ペテロは恐れから、イエスを見捨てて逃げ出し、イエスを知らないと3度言いました。隠れ、部屋の鍵を締め、震え上がって、全てを諦めたのです。ペテロは、自己中心から、他の人と比べ、自分と違う民族を否定しました。自分に失望し、恐れや不安で閉じこもる弟子たちの姿は、自分を見るようです。
神を諦め、自分を諦め、昔に戻ろうかと思い巡らせていた時・・・イエスはよみがえり、弟子たちを送り出しながら、今日の約束をするのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節
そして、その約束はこのペンテコステの日に実現しました。神の霊、聖霊が注がれた、弟子たちのうちに神が住み、共にいてくださるようになった。
一人なら恐ろしいのです。一人なら乗り越えられないのです。
一人なら、恐れに体も心も固まり、不安で押しつぶされてしまいます。
一人ならば、恨みや怒り、自己憐憫で心が煮詰まり、毒々しくなってしまいます。
一人ならば、自己中心で、狭く、閉ざされた心になってしまいます。
けれど、私達は一人で生きなくていいのです。神がともにいる、キリストが共にある、
神の霊が私達の内に住んでくださる。もうひとりではないのです。もう諦める必要はないのです。
もう恐れて閉じこもる必要はないのです。神があなたとともにいてくださるのですから。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:26~27
聖霊が注がれた時、キリストが内側に共にいてくださった時、恐れずに、嫌っていた外国の言葉で、相手を敵とせずにむしろ相手を想って語りました。
変わらずに、弱さや愚かさもあったでしょう。それでも、ペテロは変わったのです。キリストが共にいるなら、私達は変えられていくのです。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章17~18節
日曜にこうして礼拝をし、互いに励まし会えることは大きな喜びです。
けれども、それ以外の日、家庭で、職場で、学校で、様々な人間関係の中で、私達は同じ時を過ごすことが出来ません。
けれど、忘れないでください。
私達の神は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と私達に誓ってくださった。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と約束してくださった。
この安心に支えられて、今日も、明日も、この地上での全ての日を、キリストとともに歩んでください。
<聖霊の続唱>
聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方、やさしい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのない拠り所。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め、恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、すさみを潤し、受けた痛手を癒す方。硬い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。
ペンテコステに関する補足資料
〇ペンテコステはクリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祭の一つです。「教会の誕生日」とも呼ばれます。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、制度でもなく、当然牧師や信仰歴の長い人でもありません。原語のギリシャ語エクレシアは、「呼び出された集団」をさす言葉で、神に召された信仰者の集まりを指して、キリストはエクレシアと呼びました。ペンテコステは、聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれ、聖霊が神を信じる全ての者に注がれた日、私たちが教会になった日です。
〇ペンテコステはもともとは、「五旬節」。過ぎ越し祭りから50日後、ユダヤ教の五旬節・「初穂の祭り」であり、収穫の始まりを祝うお祭りであり、シナイ山でモーセが律法を授与されたことを記念する日でもありました。その日に聖霊が注がれたのはとても象徴的です。
〇聖霊とは、神様であり、神様の霊です。主の御霊、キリストの御霊とも呼ばれます。聖書の神様は唯一でありながら、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神様としてあらわされます。
旧約聖書の時代、父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。
新約聖書の福音書の時代、子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。
そして、その後は、聖霊なる神が、私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。
どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださるほどに、神が人を求められたのです。
〇聖霊は(聖霊なる神様は)旧約聖書の時代は、ごく限られた一部の人(預言者、王様、祭司など)に、限られた時間だけ注がれ、その人は特別な働きをしました。けれどもヨエル書にはこのような約束があります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)このその約束はペンテコステで実現しました。ペンテコステ以降、聖霊なる神様は、特別な人ではなくすべての人の内に、一時滞在ではなく永遠に、住んでくださったのです。
〇「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、」と、神とパウロに背きに背いたコリント教会にも語られるように、全ての信仰者の内に住んでくださっています。そして、大切なのは、「御霊を悲しませ」る歩みをすることでなく、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)「御霊によって歩」むことなのです。
ヘブライ語では霊とは、息とか風を意味する言葉です(exヨハネ3:8)。わたし達は風を見ることは出来ませんが、揺れる枝葉や音から存在を知ることが出来ます。同じように、聖霊なる神様も、信仰者の言動から感じることが出来るのです。
◯ペンテコステで起きた様々な国の言葉で話す出来事、これはバベルの塔(創世記11章)の出来事とつながっています。人間が高慢になり天に届く塔を建てようとし、神が様々な言語を与えることで、塔の建設を阻止した出来事です。彼らが塔を立てた理由、それは「散らされるといけないから。」です。神様は「地を満たせ。」(創世記1:28)と願ったのに、人々はそれを拒んで一箇所にとどまろうと塔を、外と自分を隔てる壁を作ったのでした。だから多様な言葉を与えて、人々を地の全面に散らしたのです。壁でなく、橋を作るようにと。